第2話:静寂の聖域と「蒐集家」
歌舞伎町の外れ、ネオンの光も届かない場所に、そのビルは立っていた。
蔦に覆われ、幽霊屋敷のような風貌。
急な階段を上った先にある鉄の扉には、場違いなほど美しい書体で『吉沢図書館』と記された小さなプレートが掲げられていた。
美波が扉を開けた瞬間、空気の密度が変わった。
新宿の喧騒と排気ガスの匂いは一瞬で消え去る。
代わりに、むせ返るような古い紙、糊、そして上質な紅茶の匂いが鼻腔を支配した。
壁一面を埋め尽くす書棚。
天井まで届くその棚には、背表紙の擦り切れた古書から、革装の貴重書までが、脊椎標本のように整然と並んでいる。
その奥、小さな真鍮のランプの灯りだけで照らされたデスクで、一人の女が静かに座っていた。
吉沢里香。
彼女は、外科医のような緻密さで、古い和書の糸を解き、綴じ直していた。
透明感のある白い肌。
伏せられた長い睫毛が、微かな影を頬に落としている。
その姿は、時間の流れから取り残された一枚の絵画のようだった。
しなやかな指先を動かす彼女の佇まいはどこまでも美しいが、その奥には触れる者を拒絶するような「冷徹な知性」が潜んでいる。
「閉館時間は過ぎております、池田美波さん。……あいにく、ここは泥と血を撒き散らす野良犬を救済するシェルターではありません」
里香は顔を上げず、鈴の鳴るような澄んだ声で言った。
丁寧な敬語というオブラートに包まれているが、その言葉の端々には触れれば指が切れるような鋭利な毒が仕込まれている。
「……私の名前、知ってるのね」
「情報の海を泳ぐのが私の仕事ですから。池田さんのような『真っ直ぐすぎて折れた枝』のデータは、嫌でも目に留まります。……お座りになりますか? その濡れた服で、私の貴重な蔵書を汚さないでいただけるなら」
里香はゆっくりと筆を置き、初めて美波を正面から見据えた。
眼鏡の奥にある瞳は、湖の底のように静かで、底知れない知性を湛えている。
「三ヶ月前の『データ消失事件』。あなたが守ろうとした少女の記録を消し、あなたを警察から追い出したのは、九条拓馬。……違いますか?」
美波は息を呑んだ。
自分の人生という物語のページを、勝手にめくられたような不快感と、戦慄。
「そうよ。あいつの尻尾を掴むために、あんたの持ってる『記録』が必要なの」
「記録、ですか。……高いですよ? 身体だけで稼いできたあなたには、一生かかっても払えないくらいに」
里香は立ち上がり、音もなく美波の前に歩み寄った。
彼女が纏う清潔な石鹸の匂いが、美波の野性的な感覚を逆撫でする。
「条件があります。今夜、九条が実質的に経営する秘密クラブ『パラダイス』に潜入し、ある男のスマートフォンからデータを抜いてきなさい」
里香は美波の顎を冷たい指先で持ち上げ、その大きな瞳を覗き込んだ。
「それができたら……その大きな瞳に見合うだけの『真実』を差し上げましょう。この、三番目の書庫からね」
『三番目の書庫の蒐集家』をお読みいただきありがとうございます!
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