第1話:泥濘と残光
新宿の夜は、常に何かが腐敗していく匂いがする。
叩きつけるような雨は、街の汚れを洗い流すのではない。
むしろ、隠されていた澱を浮き彫りにしていた。
池田美波は、その澱の中を全速力で駆け抜けていた。
呼吸が、燃えるように熱い。
喉の奥に鉄の味が広がる。
安物の革ジャケットは雨を含んで鎧のように重く、走るたびに美波の肩を冷たく叩いた。
だが、彼女の足取りに躊躇はない。
濡れたアスファルトを蹴るたびに、泥水が激しく跳ね上がる。
「待て……っ! 逃がさないって言ってるでしょ……!」
前方、闇の中を泳ぐように逃げる男の背中に向かって、美波は叫んだ。
その声は激しい雨音にかき消されそうだったが、彼女の瞳に宿る意志までは消せない。
零れ落ちそうなほど大きな、意志の強い瞳。
その奥には、正義を信じて裏切られ、バッジを奪われた三ヶ月前の悔恨が、今も消えない青い火となって燃え盛っている。
彼女がその鋭い眼差しで睨みつけるとき、世界の時間さえも一瞬だけ凍りつくかのようだった。
突き当たりは、蔦の絡まった古いレンガ壁。
行き止まりだ。
男が絶望に顔を歪め、振り返った瞬間、美波は迷わずコンクリートを蹴った。
しなやかな跳躍。
滞空時間の長いその動きは、暴力的なまでの躍動感に満ちている。
空中で身体を鋭く捻り、すべての体重を乗せた回し蹴りが、男の側頭部を正確に捉えた。
鈍い音。
男が崩れ落ちるのと同時に、美波は鮮やかな着地を見せた。
「――確保。大人しくしなさい、このクズ」
低い、けれど凛とした声が路地裏に響く。
美波は膝で男の背中を押さえ込み、手慣れた手つきで手首を固めた。
冷たい雨が顔を洗う。
頬の掠り傷が染みたが、ようやく手に入れた「獲物」を前に、彼女の唇には不敵な笑みが浮かんだ。
しかし、その達成感は、背後から迫る重厚なV8エンジンの咆哮によって無惨に踏みにじられた。
逃げ場のない路地裏に、漆黒のセダンが滑り込んでくる。
強烈なハイビームが、雨粒の一つ一つを銀色の針に変え、美波の視界を真っ白に染め上げた。
「……警察? いえ、このタイミングは……」
美波は光を遮るように手をかざした。
重厚なスモークガラスの窓が、静かに、けれど威圧的に降りる。
そこには、この街の「真実」を金とデータで書き換える支配者――九条拓馬の、仮面のような微笑があった。
「お疲れ様、池田元刑事。その男は、私の『落とし物』だ。返してもらおうか」
「ふざけないで。この男は誘拐の実行犯よ! 証拠だって、全部私の目の前に……」
「証拠? ああ、それなら今、消えたよ」
九条が優雅に指を鳴らす。
直後、美波のポケットの中で警察無線が耳障りなノイズを上げ、完全に沈黙した。
セダンから降りてきた黒服の男たちが、無言で美波を包囲する。
数分後。
男を奪われ、雨の中に独り取り残された美波は、泥だらけの拳を地面に叩きつけた。
爪が割れ、血の混じった泥水が流れる。
「……クソっ……あいつら、絶対……絶対、地獄に引きずり下ろしてやる……!」
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