第17話:デジタルが消せなかった「繊維の記憶」
新宿の外れ、高度経済成長期の残骸のような木造アパート。
西日の差し込まない四畳半の部屋は、古いカビの匂いと、美波の傷口から漂うツンとした消毒液の匂いが混ざり合い、重く沈殿していた。
里香は、暗い部屋の隅、軋む床板の上に膝を揃えて静かに座っていた。
どこか浮世離れした清廉な美しさは、今や透き通るような虚無に塗りつぶされている。
彼女の膝の上には、二度と起動することのない、硝子の破片が詰まったノートPCが置かれていた。
指先一つで世界を暴き、他人の人生を保存してきた「蒐集家」の矜持は、美波の命という対価と引き換えにデジタルの塵となって消えた。
彼女は今、指を動かす術を失い、ただの、折れそうなほど細い一人の女としてそこに佇んでいた。
「……里香。その『お葬式』みたいな顔、やめなさいよ」
部屋の中央、包帯の隙間から滲む血を厭わず、美波が力強く声を上げた。
零れ落ちそうなほど大きな瞳。
それは全身の激痛を、意志の力だけで「燃料」に変え、暗闇の中でらんらんと輝いている。
彼女が言葉を発するたびに、部屋の死んだ空気が微かに震えた。
「あんたの脳細胞にアーカイブが残ってるなら、記録は死んでない。……それに、データがなくても、私のこの拳と脚はまだ生きてる。……まだ、負けてないわ」
「……分かっています。……重々、分かっています。……でも、美波。今の私たちには、九条を法的に射抜く『実弾』がないのですよ」
里香の声は、ひび割れた陶器が擦れるような乾いた響きだった。
その視線が、佐伯が命懸けで警察の証拠品倉庫から掠め取ってきた一冊の古びた手帳に落ちた。
それは、美波の亡き父・誠一が遺した、デジタル化されることのなかったアナログの極致――「紙の日記帳」だった。
里香の白い指先が、茶色く変色し、角の丸まった日記の表紙を静かになぞる。
「九条は、この街の全データを書き換え、都合の悪い履歴をすべて消し去りました。バイナリの世界なら、彼は全能の神だったでしょう。……けれど」
里香の瞳に、知性の欠片が再び鋭く宿る。
「この古い紙の繊維に染み込んだインクまでは、彼のアルゴリズムは届かなかった。物質は、論理よりも残酷に、真実を保存し続けるのです」
里香が、日記の最後の一ページ、一見するとただの無意味な幾何学図形に見える書き込みを、暗い真鍮ランプの下で解析し始めた。
彼女の知性は、デバイスを失ってもなお、鋭利な刃のまま研ぎ澄まされていた。
「……ここです。美波。あなたの実家、その庭にある古い物置の床下。……父さんは、九条が最も恐れる『物理的な証拠』を、土の中に埋めていたんです」
美波の瞳に、かつてないほどに強い、宿命的な光が宿った。
「……行こう。父さんが最後に遺した『仕事』、私が引き継ぐわ」
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