第15話:断絶の聖域、最後の一撃
新宿の北端、かつての工業地帯に打ち捨てられた巨大な廃工場。
そこは地図の上ではただの「空地」と記されながら、その実、九条拓馬が法の目を盗んで築き上げた、物理サーバーの要塞だった。
深夜二時。降りしきる雨を切り裂いて、一台の盗難車が咆哮を上げた。
ズガァァァァンッ!!!
「――九条おおおぉぉ!」
池田美波の野性的な咆哮が、重厚な鉄柵をぶち破る凄まじい衝撃音と共に響き渡る。
運転席から泥まみれになって転がり出た彼女の姿は、もはや「探偵」でも「元警官」でもなかった。
その零れ落ちそうなほど大きな瞳。それは不眠と激昂によって血走り、真っ赤に充血している。
瞳孔は獲物の頸動脈をピンポイントで狙う獣のように細まり、暗闇の中で異様な光を放っていた。
独りになった彼女には、もはや戦略も、後方支援も何もない。
あるのは、父の無念を晴らし、自分を裏切った世界に爪を立てるという、剥き出しの殺意だけだ。
工場の守衛たちが一斉に銃を構えるが、美波の動きは野生の豹のごとき反射速度でそれを凌駕した。
濡れたアスファルトを滑るように進み、一人目の手首を無慈悲にへし折り、二人目の顔面に、自分の骨が砕けるのも厭わぬ重い膝蹴りを叩き込む。
「どきなさい! 私を止めるなら、殺してからにしなさいよ!」
叫ぶ美波の左肩を、敵の鉄製警棒が強烈に打った。
ゴキッ、という鈍い音が響き、美波の唇の端から鮮血が飛び散る。
だが、彼女はその血を拭うことさえしない。
折れた肋骨の激痛をむしろ前進するための起爆剤にして、さらに深く、敵の心臓部へと突き進んでいく。
一方、新宿の片隅。
借り物の安っぽい軽自動車の後部座席で、吉沢里香は震える指先をキーボードに添えていた。
車内は、ノートPCの青白いバックライトに照らされ、彼女の顔を死者のように白く浮かび上がらせている。
その清廉な横顔は、今、極限の演算速度と、胸を掻きむしるような自己嫌悪の狭間で研ぎ澄まされていた。
モニターには、工場の監視カメラを逆ハックした映像がリアルタイムで映し出されている。
そこには、十数人の武装した私設兵に完全に取り囲まれ、全身ボロボロになりながらも立ち上がる美波の姿があった。
美波の硝子の瞳が、レンズ越しに里香を責めているように見えて、胸が痛いほどに締め付けられる。
「……バカな人。本当に、救いようのない……私の、愛すべきバカ」
里香の前には、二つの選択肢が残酷な天秤として置かれていた。
一つは、九条を社会的に抹殺するためにこれまで人生を賭けて積み上げてきた「全アーカイブ」を守り抜き、このまま美波を見捨てること。
もう一つは、その全リソースを一点に集中させて工場の全システムを物理的に暴走させ、美波を救い出すこと。
だが、後者を選べば、カウンターハックの炎によって里香の存在意義そのものだった「三番目の書庫」は一瞬で無に帰す。家族の生きた証も、すべて消える。
「記録か。……それとも」
里香の脳裏に、あの雨の夜、美波が重ねてきた手の圧倒的な熱が蘇る。
『あんたの記録は、私が一生背負ってってやる』。
里香は自嘲気味に、けれどこれまでにないほど人間らしくて美しい微笑を浮かべ、眼鏡を外した。
「……記録なんて、またあなたが作ればいい。でも、池田美波という『生きたノイズ』の代わりは、この世界に一人もいない」
彼女の白い細い指が、ためらうことなく実行キーを叩いた。
『全アーカイブ・デリート。システム強制執行』
画面上の数億のデータが、一瞬にして光の塵へと書き換わっていく。里香は自身のすべてを、美波という一人の女のために差し出した。
『三番目の書庫の蒐集家』をお読みいただきありがとうございます!
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