第11話:嵐の前の、静かなる宣戦布告
新宿の夜を支配する、地上200メートルの要塞。
九条グループの本社ビル『クジョウ・タワー』が、冷たい銀色の光を放ってそびえ立っていた。
その表面は鏡のように滑らかで、街の欲望を反射し、侵入者を寄せ付けない傲慢さを湛えている。
その直下、地下駐車場の深い闇の中に、一台の漆黒のバンが滑り込んだ。
重低音を響かせていたエンジンの唸りが消えると、車内には計器類が放つ微かな電子音だけが残された。
「……心拍数、120。美波、少し上がりすぎです。深呼吸を。肺の酸素をすべて入れ替えなさい」
助手席でノートPCを高速で叩く里香が、画面から目を離さずに告げた。
その清廉な横顔は、ディスプレイの青白い光に縁取られ、まるで精巧なクリスタルのような無機質な美しさを放っている。
眼鏡の奥の瞳は、数万行のコードを追うため、目まぐるしく左右に揺れていた。
「無理言わないで。これから『世界』を相手に喧嘩売るんだから。……血が沸騰しそうなのよ」
運転席の美波が、ハンドルを握りしめたまま呟いた。
零れ落ちそうなほど大きな瞳。
その硝子の瞳は、フロントガラス越しにそびえ立つ巨大な要塞を獰猛に射抜いている。
恐怖を完全に塗りつぶすほどの、純粋で暴力的なまでの闘志。彼女の指先は、戦いを求めて微かに震えていた。
「佐伯、準備は?」
「……はい。足の震えが止まりませんけど、やるしかないっす。先輩に置いていかれたくないですから」
後部座席で、警察の特殊無線ジャマーを抱えた佐伯が、真っ青な顔でコクコクと頷く。
その隣では、ハルが無言でナイフの調子を確かめ、重厚なジャックハンマー(電子破砕機)を肩に担いでいた。
「ハル。物理破壊の準備が整い次第、私がメインシステムへ『ゼロ・デイ(未知の脆弱性)』を流し込みます。……美波。エレベーターが止まるのは、突入から三十分後。それが私たちの、命の期限です」
里香がキーボードを叩く手を止め、初めて美波の目を見た。
その冷たい指先が、美波の熱い手の甲にそっと触れる。
一瞬、熱と冷が交差し、脳裏に火花が散ったような錯覚が走る。
「……信じてるわよ、里香」
「期待に応えるのが、蒐集家の仕事ですから。……さあ、世界を書き換えに行きましょう」
作戦開始の合図は、タワー全階層の完全な「暗転」だった。
里香の超絶的なハッキングが、要塞の全神経系を一瞬にして麻痺させる。
きらびやかな光の柱だったタワーが、次の瞬間には巨大な墓標へと変わる。
「行け……!」
美波が叫ぶと同時に、ハルが影のように車を飛び出した。
彼は手にした特殊爆薬で、地下ゲートの電子ロックを『物理的』に破壊する。
爆圧で鋼鉄の扉が歪み、わずかな隙間が生まれた瞬間、美波は佐伯を引き連れてその先へ弾丸のように飛び込んだ。
タワー内に狂ったような警報音が鳴り響く中、美波は中央階段を獰猛に駆け上がっていく。
『美波、二階廊下。警備員が六名。右の消火システムを強制起動しました。視界ゼロ。霧の中を抜けて』
インカム越しに、里香の氷のように冷静なナビゲーションが飛ぶ。
プシューーーッ!! と真っ白な霧が噴き出す廊下。
だが、美波は一切の迷いなく、その視界ゼロの空間を疾走した。
しなやかで力強い肢体が、暗闇と霧の中で美しく躍動する。
立ちはだかる警備員の喉元へ、容赦のない鋭い掌打。
続く二人目の膝を無慈悲に砕き、三人目の背後へ回り込んで、その頭部をコンクリートの壁に叩きつける。
「邪魔よ!」
美波の大きな瞳が、獲物を狩る猛禽のように怪しく光る。
彼女にとって、この暴力は奪われた正義を奪還するための神聖な儀式だった。
一方、地下の車内。里香はキーボードを打つ指を一切止めない。
彼女の脳内では、タワーの全電子回路が鮮明な立体地図として展開されていた。
「……九条、やはり罠を張っていましたね。私の意識を外周サーバーに引き付けて、美波たちを閉じ込める気ですか。……底が浅い」
里香の口元に、冷たく、残酷な微笑が浮かぶ。
彼女は指先一つで、九条が誇る超一流のセキュリティ・チームを次々とデッドロック(作戦不能)へと追い込んでいく。
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