第10話:聖域の崩壊、絆の再構築
一時的な潜伏先である、暗いコンテナ倉庫に戻った美波は、冷たい床に力なく崩れ落ちた。
警察官としての誇り。
池田美波という名前。
命を懸けて愛した新宿の街。
すべてを九条に奪われ、デジタルの泥で汚された。
「……里香。私、もう終わりかな。世界中が私のことを殺人犯だと思って見てる。私の瞳に映るものが、全部敵に見えるわ……」
里香は、暗い部屋の隅で、ディスプレイの青白い光に顔を照らされていた。
知性の極致で研ぎ澄まされたその清廉な横顔は、静かな怒りに満ちている。
「美波。立ってください」
里香はキーボードから手を離し、音もなく美波の前に歩み寄った。
そして、泥と涙で汚れた美波の顔を、自身の両手で優しく、けれど拒絶を許さない強さで包み込んだ。
里香の指先は、相変わらず死者のように冷たかった。
けれど、その絶対的な冷徹さが今は、美波の過熱し、壊れかけていた頭を心地よく鎮めていく。
「世界があなたを嘘だと呼ぶなら、私はこの世界の全データを書き換えてでも、あなたを『正解』にします。……九条があなたの記録を汚したのなら、私は彼の存在そのものをこの世の履歴から消去してあげる」
里香の眼鏡の奥の瞳が、至近距離で、美波の濡れた硝子の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「池田美波という存在のオリジナル・バックアップは、私のこの脳内に完璧に保管されています。……私があなたを覚えている限り、あなたは死なないし、消えもしない」
美波は里香の手の上に、自分の熱い手を重ねた。
ドクドクと、二人の鼓動が手のひらを通じて交錯する。
「……里香。あんた、ほんと……傲慢ね」
「最高の褒め言葉として受け取っておきます。……さあ、反撃の時間です」
「九条が偽のあなたで街を騙すなら、私は『本物』の力を見せつけてあげる」
里香が美波の顔から手を離し、デスクへ戻ると、流れるような動作でエンターキーを強く叩いた。
――その瞬間。
新宿中の巨大ビジョン、全走行中のタクシーのモニター、数百万人のスマートフォンの画面が、同時に激しいノイズと共にジャックされた。
画面に映し出されたのは、千人の、いや、数万人の「池田美波」だった。
里香が作成した超高度な論理ウイルスが、街中の防犯カメラと顔認証システムを逆ハックし、全映像をリアルタイムで書き換えていく。
歩行者の顔が、警察官の顔が、通行人のスマホに映る映像のすべてが美波の顔に変わる。
誰もが美波に見え、誰もが美波ではない。
九条が誇る「神の目」システムは、莫大な過負荷によって完全なシステムエラーを起こしてパンクし、その傲慢な認証アルゴリズムは一瞬にして崩壊した。
「……行きましょう、美波。九条の喉元まで、私が道を作ります」
里香は暗闇の中で不敵に微笑み、美波に一振りの漆黒のナイフと、新しい暗号化通信機を手渡した。
新宿の夜。
名前を奪われ、絶望の淵に立たされた女たちが、偽りの世界を突き破る。
最も美しく、最も過激な、本当の反撃の幕が上がった。
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