視線♪
翌朝、アタイは「清潔さ」を取り戻すべく、浴室で一時間、肉の隙間という隙間を徹底的に磨き上げた。
まだ「妾」としての尊大な自負と、「アタイ」としての自虐的な記憶が混ざり合い、頭の中が騒がしい。それでも、鏡に映る三重あごの奥にある瞳だけは、かつて大陸を平伏させた女帝の輝きを取り戻しつつあった。
特注サイズの制服に身を包み、アタイは学園の教室へと足を踏み入れた。
重力に逆らうような足取りは、九十八キロの肉体には酷なはずだが、不思議と心は軽かった。
「おはよー! シルヴィアちゃんっ!!」
教室に入るなり、弾丸のような勢いで駆け寄ってきたのは、ルチアだった。
金髪のポニーテールを犬の尻尾のように振り乱し、彼女はアタイの胸元――正確には、膨大な魔力を蓄えた豊満な腹部へとダイブしてきた。
「わあ……っ! 今日のシルヴィアちゃん、すごくいい匂いがする! シャワー、頑張ったんだね?」
ルチアはアタイの腕にぎゅっとしがみつき、猫のように頬をすり寄せてくる。その瞳には、一分の曇りもない純粋な好意が宿っていた。
「……なんかね、シルヴィアちゃんのこのふわふわした感じ、昔飼ってた大きなスライムちゃんにそっくりでさ、すっごく安心するの。……ねえ、昨日は本当に心配したんだから! ちゃんとお肉食べて、元気にブヒッてしてなきゃダメだよ?」
(……スライム。あまつさえ、ブヒッ、だと……?)
アタイは内心で眉をひそめた。かつての妾であれば、この無礼な小娘を即座に地下牢へ放り込んでいたところだ。
しかし、彼女から伝わってくるのは、計算も裏表もない「天然の母性」。虐げられてきたシルヴィアを守ろうとする、あまりに真っ直ぐな慈愛だった。
「……ふふん。相変わらず、貴様は本当に甘えん坊ね、ルチア。だが……その隠し事のない懐き方、嫌いじゃないわよ」
「えへへ、口調どうした!?でもシルヴィアちゃんが元気ならそれでいいの!」
すると、ルチアの背後から、静寂を纏ったような落ち着いた声が響いた。
「おはよう、シルヴィア。……昨夜はよく眠れたか?」
銀髪を完璧な角度で整え、風紀委員の腕章を光らせたレイヴェルが、音もなく近づいてきた。
彼はアタイの前に立つと、重さに悲鳴を上げているアタイの鞄をごく自然な動作で受け取った。
「顔色が随分と良くなったようだな。無理をしているようには見えないが、頑張れ」
その所作には、一切の忖度も、同情ゆえの卑屈さもなかった。
目の前の相手が「帝国最下位のデブ令嬢」であろうと、一人の高貴な淑女として扱う。それが彼の騎士道であり、揺るぎない矜持なのだろう。
アタイは内心で、舌を巻いた。
(……この男、天然の紳士ね。計算ではなく、呼吸をするように礼節をこなしておる。……合格よ。妾の宮廷に欲しかった人材だわ)
しかし、平和な時間は長くは続かない。
授業開始のチャイムが鳴る直前、クラスメイトのベアトリクス男爵令嬢が、取り巻きを連れて鼻で笑いながら通り過ぎた。
「まあ。シルヴィアったら、急に清潔ぶって上等ぶってるの? 底辺のくせに、ルチアやレイヴェル様の気を引こうだなんて、滑稽にも程があるわ」
その刺すような言葉に、アタイが言い返すよりも早く、ルチアが声を荒らげた。
「ベアトリクス! シルヴィアちゃんの悪口を言わないで! 外側しか見てないあなたに、何がわかるのよ!」
さらに、レイヴェルも氷のように冷たい視線をベアトリクスへと向けた。
「ベアトリクス。人の変化を素直に認め、祝福できないのは、自身の心が貧相である証拠だ。風紀委員として、また一人の騎士として、君のその態度は看過できない。……俺は、今のシルヴィアを心から嬉しく思っている」
守られることに慣れていなかったシルヴィアの意識が、胸の奥で熱く脈動する。
アタイは、二人を見上げた。
(ルチアの純粋な母性。レイヴェルの揺るぎない高潔さ……。ふん、どちらも『推せる』どころの騒ぎじゃないわね。この二人の『善意』が、捏造された歴史という泥に汚されるのは、我慢ならないわ)
休み時間。ルチアは当然のようにアタイの太もも(二人掛けのソファほどもある)に頭を乗せ、スヤスヤと寝息を立て始めた。
「シルヴィアちゃんの体……温かくて、マシュマロみたい……。ずっとこうしてたいな……」
レイヴェルは少し離れた席で、書類を整理しながら、時折こちらを見ては優しく目を細めている。
アタイは炭酸水のボトルを握りしめ、心の中で静かに、しかし激しく笑った。
(……今世は、本当に欲張りになれそうね。妾を裏切り、貶めた連中を根絶やしにするのは当然として――この二人の笑顔を、妾が責任を持って守ってやるわ)
底辺からの反逆は、まだ始まったばかり。
九十八キロの膨大な魔力を蓄えた元女帝は、二人の忠実な味方を従え、まずはこの学園の腐った秩序を塗り替えるための「仕掛け」を練り始めた。




