第一話 日常の終わり
遥か古から伝わる伝承がある。それは数百年、数千年に一度、巨大な蛇が現れ、子を山へ攫っていくというものだ。
あろうことか、その攫われる子供が私だ。私が生まれるずっと前から決まっていたことらしい。そのために我が国では王子として祀られているが、幼い頃の私にとっては、どこか現実味のない他人事のように思えていた。
小雨が降る中、下界の国へと向かう馬車に揺られていた。16を迎えた私は、ある国の王女との婚儀を控えていた。
馬車に揺られ、未だ会ったこともない許嫁に思いを馳せながら、窓の外を眺めていた。
「ツェン王子、ご準備はよろしいですか? もう間もなく"下界"の領土に入ります」
「問題ないよ、じいや。でもこっちでは"下界"という言い方はタブーだよ」
じいやは苦笑いをし馬車の椅子に深く寄りかかる。
我々の国では山を下った地域を全て"下界"と呼んでいた。だが実態は山岳で資源の乏しい我が国と比べ、下界の国々の方が栄えている。その資源を目当てに、名ばかりの王子である自分を利用し政略結婚まがいのことを目論むのは至極妥当だと、私自身でさえ考えていた。
険しい山岳地帯を抜け、馬車はすでに平地を走っていた。だんだんと下界との境界に近づく。街道の脇に広がる草原を見るのも数年ぶりだ。
その時、1騎の騎馬が街道へ接近してきた。馬に跨るその騎士は巨大な剣を携えて、我が隊へ迫ってくるのが見える。その頭には布を巻きつけていた。
ただならぬ気配を感じた。追従する兵士たちは気付いていないのか。思わず、馬車の窓から身を乗り出し大声で叫ぶ。
「右後方。4時の方角だ。誰か来るぞ!」
20人余りの軍勢が私の声に反応し、交戦態勢を取る。流石に多勢に無勢だと思いつつも、私は伝承のことを思い浮かべていた。
騎士は馬に乗ったまま剣を抜かず、長い木の棒の様なものを構えた。そしてその木の棒1本で我々の軍勢を次々になぎ倒していく。
私は思わず騎士のその鮮やかな戦いに見とれていた。
「ツェン王子。こちらです」
じいやに手を引かれ混乱で止まっていた馬車から下車する。幸い騎士はまだこちらに気がついてはいない。身をかがめたまま背の高い草の間を走る。
「あの林まで行きましょう」
じいやの後を追いながら振り返ると、すでに我が軍勢で立っているのは数人だけだった。
私が林の入り口の木の後ろに隠れたとほぼ同時に、我が軍勢はたった1人の騎士に全滅させられた。
男は馬車を一瞥すると、中を確認する事なく周囲に視線を移した。
そしてすぐさまこちらの方向を凝視する。まもなく馬に跨ったままこちらにゆっくりと近付いてきた。
「ツェン王子。行き先までの道のりはわかりますか」
「道はわかるが、何をするつもりだ」
「これを」
じいやの手には国に伝わるダガーが握られていた。ダガーの持ち手と刃の間には、美しい魔石が埋め込まれている。本来は婚儀の際に使うための道具だった。そのダガーを今渡すのは、別の用途で活用することを期待しているというじいやの意図は明確だった。
「私も騎士の端くれです。出来るだけここで足止めをします。王子。どうかご無事で」
そういうとじいやは腰に備えた剣を抜き、木の裏で待ち伏せた。
「じいや…。すまぬ」
ダガーを強く握りしめ、低い姿勢のままその場から離れる。
走りにくい林を駆けて行く。その時、カコンという木を叩く様な乾いた音が聞こえた。じいやが倒されたのだと振り返らずともわかってしまった。
無我夢中で走った。じいやも軍隊も無く、化け物が迫っている。ほんの数時間前まで考えもしなかった現実が後方から押し寄せてくるようだった。
草原の先に広い城壁に囲まれた街が見えてきた。その時、大地を駆ける蹄の音がすぐ近くから聞こえる。
振り返る間もなく、私の前に騎士は回り込んできた。
握っていたダガーを鞘から抜く。青く光るその刀身が雨に濡れ、キラキラと宝石のように反射していた。
武芸の心得は多少あった。恐怖心を押し殺しダガーを構える。
だが眼前に立ちはだかる男の、布の隙間から覗く瞳――人間のそれとは明らかに異なる冷たく鋭い視線と目が合った瞬間、私の全身の毛穴は萎縮し、呼吸の仕方すら忘れてしまっていた。




