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最適解では生きられない ――正しさを捨てられない君と、選び続ける僕の話  作者: 希主果
第一章 ラビットハンター

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第七話 新月の夜

 「あっ、やっぱり。やけに暗いなと思ったら、今日は新月だったんですね。」


 「…… ……。」


 「…… ……。」


 ナンナが持てる勇気を振り絞って口にしたその言葉は窓から吹き込む夜風と共に流れて消えてしまった。


 (どうしよう、アイリちゃんが静かだ……。)


 聞こえなかった――という事はないはず。

 床板の向こうから今なお聞こえる喧騒も風に揺れるカーテンの布擦れ音には遠く及ばない。

 そんなものに負けるほど今の私は弱くない……はずだ。


 ここは酒場『斧と杯』の二階、簡易宿の一室。

 板張りで質素、良く言えば実用的な部屋。無理やり二台の寝台を押し込めた為か、広さはさほど無い。たが、雨風を気にせず休めるのは本当に嬉しい。

 私たちが今晩泊まるところが無いことをリッカさんに話したら快く貸してくれる事になった。

 しかも――宿代は出世払い。

 何とも気前の良いフレーズが耳に飛び込んできた時にはいつも冷静なユマークさんも飛び上がるように喜んでいた。

 だけど、それからアイリちゃんは一人黙ってしまい、現在に至っている。


 リッカさんに貸しが出来たのが嫌だったのか、それともユマークさんとの相部屋が気に入らなかったのか……。


 (私だったらやっぱり……、知らない男の人と一緒の部屋は流石に嫌だな。)


 ナンナは今一度、周りを見渡した。

 その目にはホップラビットに狙いを定めた時の鋭さにも似ていた。

 アイリは寝台に腰を掛けて外を眺め、ユマークは扉にもたれて身体を休めている。

 互いに目が合わないよう別々の方向を向いている姿が、かえってこの空気の気まずさを際立たせていた。


 (よし!あの人ならきっと……大丈夫、それよりも今はやっぱりアイリちゃんだ。)

 

 これまでを見る限り、アイリちゃんは良くも悪くも感情に素直な人だ。

 困っている人がいれば放ってはおけないし、嫌なことがあれば露骨に顔に出てしまう。

 ある意味、一番子供っぽいって言ったら怒られちゃうだろうか。


 それでも、私は知っている。戦っている時のアイリちゃんの背中。

 誰より不器用なくせに……、

 誰より傷ついているくせに……、

 誰より一番前で守ろうとしてくれる……。

 ――そんな、危なっかしいくらいに優しい人。


 そのかっこよさに私は勝手に憧れたりしていた。


 だから、今の姿は正直、意外だった。

 窓の外を眺めるその目は、景色を見ているようで何も映していない。

 何か言いたげに唇が僅かに動き、膝の上で握られた手は小さく震える。

 ……怒っている、というより。何かを必死に堪えているように、私には見えた。

 そんな弱々しくて、今にも壊れてしまいそうな彼女を見るのは、初めてだった。


 「アイリちゃん……?」


 それ以上、かける事を私は知らなかった。

 こんな時、ユマークさんなら冷静に状況を分析して、アイリさんが本当に欲しい言葉を見つけ出せるのだろう。  

 けれど、今の私にはそんな正解なんて分からない。


 だから、今、私に出来ることは――。

 寝台に腰を掛けるアイリの隣へ、ナンナはそっと身を寄せた。膝の上で小さく震えているその手に、自分の手を重ねる。


 「だ、大丈夫です。もしユマークさんが変なことしてきたら、その時は……その時は私がぶっ飛ばしますから!」


 拳をぎゅっと握りしめ、やたらと真剣な顔で言い切った。


 「…………っ」


 アイリの肩がぴくりと跳ねた。

 振り向いた先には、妙に真剣で、妙に必死で、そしてどこか“余計な想像までしていそうな”ナンナの顔があった。


 「ふふっ……なにそれ……っ」


 張りつめていた空気がほどけるように、アイリは吹き出す。肩の力が抜け、そのまま笑いに変わった。


 「ありがと。その時はよろしくね。」


 「はいっ! 任せてください!」


 胸を張るナンナ。その勢いは頼もしいというより、もはやこの自信は危うい。


 「……え、逆にちょっと不安になるやつなんだけど。」


 アイリが笑いながらそう漏らすと、ナンナは首をかしげる。


 「大丈夫です。変なことをする前に止めますので。」


 「今の言い方が一番怖いんだけど。」


 アイリはとうとう肩を揺らして笑い始めた。

 ナンナは満足そうに小さく頷く。


 (よし……ちゃんと笑ってくれてる)


 そのとき――


 「いや待て!」


 隣からユマークの声が飛ぶ。


「ナンナもいるのに、何かするわけないだろ。」


 やや食い気味。だがどこか必死だ。

 ナンナはぱちりと瞬きをして、少しだけ首を傾げた。


 「いなかったら……するんですか?」


 「しない。」


 即答。


 「……間が一瞬だけありましたね」


 「無い。」


 「でも今ちょっと考えましたよね。」


 「考えてない。」


 「今もです。」


 「やめろ。」


 ナンナは小さく息をついて、少しだけ残念そうに視線を落とす。


 「……そうですか。安心しました。」


 「いや安心する流れじゃないだろ。」


 ユマークが即座に突っ込む。

 ナンナはそこで、ほんの少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


 そのやり取りに、アイリはついに耐えきれず吹き出した。


 「もうダメ……、この子たち何やってるの……っ。」


 笑いながら涙目になるアイリを見て、ナンナは小さく満足げに息を吐いた。


 ひとしきり笑ったあと、部屋に静けさが戻る。けれどそれは、さっきまでの息苦しい沈黙とは少し違っていた。

 

 「……ごめんね、ナンナ。気を使わせちゃったね。」


 「そ、そんなこと……、当然です。」


 勢いのまま返してから、ナンナは自分で少しだけ首を傾げた。

 ――あれ、なんだか変な返事だった気がする。

 けれど、今さら言い直すのも恥ずかしくて、ナンナは誤魔化すように視線を逸らした。


 「ふふっ……、当然かぁ。」


 アイリは目元に滲んだ涙を指先で拭うと、小さく息を吐く。


 「私ね……、」


 ぽつりと零れた声は、独り言みたいに小さかった。アイリはしばらく視線を落としたまま、言葉を探すように唇を閉ざす。

 窓から吹き込む夜風が、揺れる髪をそっと撫でた。


 「私ね……、怖くなったの。」


 消え入りそうな声だった。ナンナはその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


 怖い――。

 何が? 誰が?

 リッカだろうか。この街だろうか。  

 それとも、これから先の事だろうか。


 けれど、俯いたアイリの横顔を見ているうちに、ナンナは何となく気付いてしまった。

 たぶんアイリは、“嫌なもの”を見たから苦しんでいるわけじゃない。


 むしろ逆だった。

 リッカの笑顔を見てしまったからだ。

 酒場で働きながら、軽口を叩いて笑っていたあの人は、決して無理をしているようには見えなかった。

 辛い現実に押し潰されて泣いているわけでもない。ちゃんとこの世界で生きていて、ちゃんと前を向いていた。


 だからこそ、怖かったのだろう。

 この世界では、ああやって生きていくしかないのだと。

 戦って、お金を稼いで、時には誰かに頼って。そうやって少しずつ、この世界の当たり前に慣れていくのだと。

 きっとアイリは、その事実を理解してしまった。

 理解してしまったから、怖くなったのだ。


 ナンナには難しいことは分からない。

 けれど、アイリがずっと“優しいまま”戦ってきたことだけは知っている。

 魔物を倒した後に顔を曇らせることも。

 困っている人を見れば放っておけないことも。

 自分が傷ついても、誰かを庇おうとすることも。

 そんなアイリだからこそ、この世界に慣れてしまう自分が怖いのかもしれなかった。


 ナンナは隣で小さく拳を握った。

 うまく言葉には出来ない。きっと今の自分では、アイリを安心させるような正解も言えない。


 それでも――。

 この人が、怖いまま一人で立っているのは嫌だった。


ナンナがそっと隣を見ると、アイリはどこか吹っ切れたように小さく笑っていた。

 その横顔を見て、張りつめていた空気がようやくほどけ始めた――その時だった。


 「……つまり。」


 扉にもたれていたユマークが、腕を組んだまま口を開く。


 「相部屋が嫌だったわけじゃないのか?」


 部屋が静まり返った。

 ナンナはぱちぱちと瞬きを繰り返す。アイリも呆けたように目を丸くしていたが――数秒遅れて、その意味を理解する。


 「……なんでそこに戻るのよ。」


 「いや、さっきナンナもそこを気にしてただろ。」


 「気にしてたのナンナだけだから!」


 「えっ。」


 ナンナが目を丸くする。


 「違ったんですか?」


 「違うわ!」


 即答だった。


 「……私はちょっと、嫌です。」


 「やっぱりそうだよなぁ。」


 ユマークは妙に納得した顔で頷くと、そのまま扉へ向かって歩き出す。


 「僕は廊下で寝るよ。」


 「待ってください!?」


 慌てたナンナが勢いよく飛びつき、ユマークの脚にしがみついた。


 「そこまで嫌がってませんから!」


 「え、でも今――」


 「ちょっとです!ちょっと嫌なだけです!」


 脚にしがみついたまま、ナンナがぶんぶんと首を振る。


 「そりゃ、私だって……、ちょっと嫌かも。」


 「やっぱり!?僕は廊下で寝る!」


 騒がしくなる部屋の中、今度はアイリまで笑いを堪えながら、被せるように乗っかってきたものだから、もう誰も止まれなかった。

 それにつられるようにナンナも吹き出し、最後にはユマークまで肩を震わせた。

 三人の笑い声は、窓から吹き込む夜風に溶けるように広がっていった。

 ついさっきまで胸を締めつけていた重苦しい空気は、もうどこにも残っていなかった。

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