第六話 斧と杯
短槍を振るう度に、身体の芯が軋んだ。
――空を切れば、流れた勢いに足を取られ、
――当たれば、その衝撃で腕が痺れる。
もう少し取り回しの良い武器を選ぶべきだったのかもしれない。だが、あの跳ね回る群れの中へ、自分から飛び込む勇気はなかった。
今回の相手はホップラビット。
単体なら脅威でもない。だが、一匹でも血を流せば話は別だ。茂みの奥で赤い目が揺れ、気付けば群れが増えていく。
平地で囲まれれば厄介極まりない相手だ。
――しかも、厄介事はそれだけじゃない。
隣の女戦士が身の丈ほどもある大剣を考えなしに振り回している。
これじゃ、戦術や連携もあったものじゃない。斬り飛ばされたホップラビットの死体が、時折こちらまで滑ってくるせいで、余計に神経を削られる始末だった。
そんな中で唯一の救いが、木の上に潜むナンナの存在だった。
木の上から放たれるショートボウは悪くない。
降り注ぐ矢は、ホップラビットが跳ねるより早く額を射抜いていく。ステータス補正のおかげか、ナンナの矢筋は初心者離れした精度を見せていた。
けれど、それも安心できるほどではなかった。
殺らなければ、殺られる。
――今まで味わったことのないこの緊張感。
戦闘が始まる前まで迷いは確かにあった。
生きる為に他の命に向けて、この槍を突き立てられるのか――そんな感情が、胸の奥で燻っていた。
だが、実際に相対した瞬間、そんな感傷は吹き飛んだ。
仮想世界のはずなのに、眼前の殺意はあまりにも生々しい。喉を焼くような恐怖も、肌を刺す空気も、何もかもが現実そのものだった。
気付けば僕は、生き残るためだけに槍を握り締めていた。
(クソっ……、心臓がうるさい。)
やはり、あの異様な静けさは正常じゃなかったのだ。
戦いが始まった途端、心拍が一気に跳ね上がる。そして、脈打つ度に熱を帯びた血が全身を駆け巡り、耳の奥で鼓動がうるさいほど鳴り響いた。
恐怖も、焦りも、苛立ちも――
胸の奥に沈んでいた感情が、一気に噴き上がる。
――胃が焼けるように熱い。
――槍を握る手は汗で滑りそうだ。
……思ったよりも時間は掛かったが、初めてのわりには上出来だった。
目の前には無数にドロップしたラビットミートとその毛皮。どれも珍しい物では無かったが、なにより三人が無事だったのが嬉しかった。
「これだけあれば、また行けるかな。行けたらいいなぁ、あのお店。今度は三人一緒だからね。」
アイリは、
――くしゃくしゃの笑顔で、
――いつもの無茶振り。
本当に変わらない、自分に正直で、真っ直ぐで。
「あぁ、そうだな。今度は三人一緒だ。」
いつもならバッサリ切ってやるところだが、荒い呼吸のせいか、それとも胸の奥で燻る高揚のせいか――今日はそれもままならない。
ナンナの頭をガシガシと撫でながら、今日ばかりは、いつ叶うかも分からない彼女の言葉に頷いた。
◇
「それではラビットミート十五個、ラビットの毛皮十個。合わせて千五十ゼルになります。」
現実は厳しい……。
あの硬い丸パン一個で百ゼル。これじゃちょっと気を緩めれば一日で消し飛びそうな額だ。宿を二部屋手配したら一体いくら飛んでいくんだ?
(しばらく、アイリには言えないな……。)
「よぉ、ユマークじゃないか。」
聞き覚えのある野太い声 ――
振り向けば、武骨なフルプレート姿の男が立っていた。どうやら、こいつも換金しに来たらしく手には大きな麻袋を持っていた。
男の名はアルク。
――あの後、自己紹介だけのつもりだったのに、流れでなぜかフレンド登録までしていた。
他の連中は近くにはいないようだが、一人でもその威圧感は相変わらずだ。
ただ、話した感じはそこまで悪い奴には思えなかった。
「相変わらず、しけた面してんなぁ。」
(うっさい、これは地の顔だ。)
「……ちょっと話せないか?」
(!?)
「あぁ、別に構わないが……。」
どう見ても古参の……、それもちょっとは名の知れた風のこの男の話って一体?
「そうか。ここじゃなんだ。酒場にでも行こうぜ。」
そう言って、大きな麻袋を肩に担ぎ直した大男は、わざと見せつけるように口の端を吊り上げる。
「嬢ちゃんたちも来るだろ?奢ってやるよ。」
「えっ、いいの!?」
食い気味に反応したアイリの目が輝いた。
「ちょ、アイリ……。」
「だって奢りだよ!?ねぇ、ナンナも行くよね?」
「……う、うん。」
ナンナは小さく頷きながらも、ちらりとこちらを見る。 突然の誘いに警戒しているのは、どうやら僕だけではないらしい。
だが当の本人は気にした様子もなく、ガハハと豪快に笑った。
「安心しろ。別に怪しい話じゃねぇよ。ちっとばかし、お前らに興味が湧いただけだ。」
◇
夜の帷が下りる頃、暖色の灯りに照らされた石畳の先に、その酒場はあった。
煤けた木板に刻まれた店名――『斧と杯』
風に軋む看板の下には、黒ずんだ木造二階建ての建物が佇んでいる。小さな窓からは琥珀色の灯りが漏れ、煙突からは白煙がゆっくりと夜空へ立ち昇っていた。
つい先ほどまで命のやり取りをしていたせいか、その生活感に妙な安心感を覚える。
――だが、それも扉を開けるまでの話だった。
アルクが乱暴に木扉を押し開けた瞬間、蒸せ返るような熱気が押し寄せる。
酒と汗と煙草の匂い。
ざわめきと笑い声。
男臭い熱気が、一気に全身を包み込んだ。
「うっ……」
ナンナは眉を顰め、思わず口元を袖で覆う。
その反応を見て、昔うっかり汗臭い運動部の部室へ迷い込んだ時の事を思い出した。
獣脂の灯りが揺れる薄暗い店内を見回す。
暖炉では薪が爆ぜ、壁には角付きの獣骨や毛皮が無造作に吊るされていた。
中央には長机が雑然と並び、冒険者風のプレイヤーたちが肩を寄せ合って酒を煽っている。
平穏な生活とは程遠い、荒くれ者たちの溜まり場。
そんな空気が、店全体に染み付いていた。
「ここは……、」
「ここが俺たちの癒しの場、『斧と杯』だ。」
アルクは大きく息を吸い込むと、酒と煙の匂いを懐かしむように鼻を鳴らす。
そして店内へ親指を向け、誇らしげに胸を張った。
「そうね、いい雰囲気。」
意外な反応だった。
年頃の女の子なら大概、もっと洒落た店を好むものだと思っていた。
先だっても、高級レストランのフルコースを目を輝かせて堪能していたし、さっきだって「三人で」をあれほど強調していたのに。
(……さっきの約束は何だったんだ?)
そんな事を考えていると、野太い声が店内中に鳴り響いた。
「おい、姉ちゃん!こっちにもエール四つだ!」
場の雰囲気に飲まれたのか、今のアルクはいつにも増して上機嫌だ。狩り場で見せていた威圧感はどこにもない。
「誰が姉ちゃんだ!そんなふざけた呼び方したらぶっ飛ばすよ!」
続いて、店の奥から勝ち気な怒声が飛んできた。
戦場のような厨房と、荒くれ者どもの溜まり場。その間を縫うように、一人の女が忙しなく立ち回っている。
この大男を前にしても、まるで物怖じする様子はない。むしろ隙さえあれば逆に捻じ伏せてしまいそうな勢いだ。
――なるほど。これなら、この酒場でもやっていける。
だが、それ以上に気になったのは、あの反応だった。
「リッカ、悪かったって。エール四つ頼む。」
怒鳴られた大型犬のように背を丸め、アルクはしずしずと席へ戻ってくる。その姿は妙に板についていて、思わず笑いそうになった。
「なぁ、アルク。彼女は一体……。」
「ん?リッカのことか?」
「そうだ。あの啖呵……、NPCの定型反応には見えない。」
「そりゃそうだろ。普段は酒場の看板娘。だが一度戦場に出りゃ、“雷鳴の鉄槌”って呼ばれてる化け物だ。」
アルクが得意げに胸を張った、その瞬間――
《ガチャン!》
叩きつけるように置かれたグラスから、琥珀色の泡が跳ねた。
「――聞こえてんだよ、馬鹿アルク。余計な事言うんじゃないよ!」
テーブルには、飛び散った泡を縁に残した三杯のエールが並んでいた。
「おい、リッカ。もう一杯は……」
「嬢ちゃんはこっちがいいだろ。」
そう言って差し出されたのは、葡萄色をした果実水だった。
「あ、ありがとうございます……。」
ナンナはほっとしたように胸を撫で下ろした。どうやら、自分からは言い出せなかったらしい。
(確かに……。)
NPCが、空気を読んで自分から気を回す――そんな挙動は見たことがない。
つまり彼女は、僕たちと同じ囚われの人間ということになる。
だとすれば、なぜ彼女はここで働いている?二つ名を持つほどの凄腕プレイヤーが働く意味って一体?
視線を上げると、ナンナの横に座るアイリの表情がやけに強張っていた。
歯を食いしばり、今にもギシギシと音を立てそうなその横顔には、剥き出しの敵意が滲んでいた。
それはもはや、憎悪と言い換えてもよかった。
(まずい。)
現実へ帰ることを、誰よりも諦めていないアイリのことだ。このまま放っておけば、何をぶつけるか分からない。
僕は額から垂れる汗を拭う事もしないで、ただ両者の間に漂う空気の重さに押し潰されまいと必死で堪えていた。
「驚いた顔……、してるね?当ててあげようか、君が何を考えているか?」
「…… ……。」
僕に向けたリッカの言葉。
でも、それは必ずしも僕だけに向けられたモノではなく、ここにいる全員に向けたモノでもない。
おそらくは、彼女自身がずっと背負ってきた贖罪に近い感情に対して向けられた――そんな気がしならなかった。
小さく息を吸って間を作ったリッカは続けて、
「なんで、あんたはこんなところで油売ってるんだ。早くみんなのところに行ったらどうなんだ。」
言葉が途切れた瞬間、アイリは大きく仰け反り、その弾みで椅子が「ガタッ」と大きな音をたてた。
その様子をみたリッカは優しく微笑んで、
「それはやっぱり――」
リッカは小さく目を伏せる。
「これからも人でありたいから……。なんだろうね、きっと。」
リッカはそう言って、小さく笑った。
その穏やかな声音が、逆にアイリの癇に障ったのかもしれない。
アイリは俯いたまま何も言わず、 ただ膝の上で握り締めた拳だけが、小さく震えていた。




