第四十九話 束の間の安堵
昼を告げるように、腹の虫が酒場中に響いた。
目を丸くしたアイリは、恥ずかしそうに頬を染めた。
けれど、誰もそれを笑うものなどいなかった。
――外では、朝の喧騒は一時途絶えていた。
しかし、昼が近づくにつれ、街の空気は再び騒がしさを増していた。
今では、怒号混じりの悲鳴が、街のあちこちから響き渡っている。
門が閉ざされてから、まだ半日も経っていない。
それなのに――
「やれやれ。こうなるのは、ある程度予想していたんだが……。」
アルセリオンは腕を組んだまま、外から響く悲鳴に耳を澄ませていた。
「悪いな。こんな物しか用意できなくて……。」
厨房から現れたリッカが運んできた大皿には、チーズを挟んだ丸パンと、蒸したジャガイモが盛られていた。
「いえ、ありがとうございます。」
ナンナは人数分の水を配りながら、リッカに視線を向けた。
「昨日までは、もう少し出せたんだけどね。今朝から市場の方が大変なことになってるみたいなんだ。」
リッカの寂しそうな顔を見て、僕は無意識に、膝の上で拳を握っていた。
いつもなら、この時間――
僕たちはホップラビット狩りに勤しんでいる頃だ。
狩った肉は、夜の酒場に並ぶ料理の一部になる。
それが、今はできない。
こうして昼食を囲んでいる間にも、酒場の食材は少しずつ減っていく。
「何が《街の安全》よ。門兵じゃ止められないからって、門まで閉じることはないと思うわ。」
アイリはお腹を押さえながら、息巻いていた。
「この調子じゃ……、三日と持たないな。」
ようやく、アルコールの抜けたアルセリオンが、ぽつりと呟いた。
「さぁ皆さん。折角、リッカさんとエイナルさんが用意してくれたんです。早くいただきましょ。」
ナンナの声に救われた僕たちは揃って昼食を摂ることにした。
食器が触れ合う音。
パンを噛み切る音。
ジャガイモを切る音。
けれど――
こんなにも静かな食事は、ここに来て初めてだった。
食後――
早々に片付けを済ませた僕たちだったが、それでも誰一人、席を立とうとはしなかった。
ただ、時間だけが無情に過ぎていく。
「あぁん、もう我慢できない。私、行ってくる。」
突然、ガタンと椅子が揺れる音とともに険しい表情でアイリが立ち上がった。
(そりゃ……、そうなるわな。)
僕は咄嗟にアイリの袖を掴んだ。
「行くって、どこへ?」
考えるより先に身体が動いてしまうアイリのことだ。
今までのことを考えれば、よく我慢した方だと思う。
『よく頑張ったね。』
そんな言葉で労ってあげたいところではある。けれど、彼女を黙って見送るほど、僕も無責任な方ではない。
まずは、彼女の言い分を聞くことにした。
「そんなの決まってるじゃない、シオンのところよ。」
いきなり、渦中の人物のもとへ、アポなしで突撃するつもりらしい。
アイリらしいと言えば、実にアイリらしい。
「そうか……。 それで、彼女は今どこに?」
「それは……。あっ、西門の兵士にでも聞くわ。」
「そうか。 でも、昨日のこともあったんだ。そう簡単に教えてくれるかな。」
「うぅ……。」
アイリは頬をぷぅと膨らませ、何か言いたげに僕の顔を睨んでいた。
「もちろん、君の意見には僕も賛成だ。こんなことを続けていたら本当に街は大変なことになってしまう。」
「……だが、相手はあのシオンだ。あんな大それた宣言をぶっ放して『実は何の考えもありませんでした。』とは考えにくい。」
「だから、確かめに行くのよ。」
アイリは今にも飛び出してしまいそうなくらい鼻息が荒い。
「ユマークさん……。」
ナンナの視線を感じる。
彼女も同意見なのだろうが、少し自信なさ気なその声は『アイリを止めて!』と言っているようにも感じる。
僕は腕を組んで、大きく息を吐いて、厨房の方へ視線を向けた。
片付けは終わったはずの厨房ではエイナルが一人、床を磨いている。
けれど、その手は時折止まり、何かを気にするように厨房の外へ視線を向けていた。
「……分かった。僕も行くよ。」
「そうでなくっちゃ!」
アイリの顔がパッと華やいだ。
「それじゃ、善は急げ――だね!」
アイリは会話もそこそこに酒場を飛び出してしまった。
ナンナとアルセリオンは互いに顔を見合わせ、やれやれと小さく息を吐くと、その後を追いかけた。
◇
「ちょっと……、何これ?」
アイリは言葉を失った。
西門前の広場――
その中心には、人だかりができていた。
だが、そこに集まった人々の顔には、一片の曇りもない。
皆一様に、笑顔を浮かべていた。
鶏肉の香ばしい匂いに、煮崩れたじゃがいもの甘い香り。
そこへディルの爽やかな香りが加わり、すべてをひとつに包み込んでいる。
「みなさん。量は十分にありますので、慌てないで並んでくださいね。」
人だかりの前で声を張り上げる一人の女騎士。
白銀の軽装鎧を身にまとい、長い髪を後ろで束ねている。
飾り気のないその装いにもかかわらず、その立ち姿には隠しきれない気品があった。
「はい。どうぞ、お待たせしました。」
「あ、あっ。ありがとうございます、シグリッドさま。」
優しげな笑みを浮かべ、一人一人に器を手渡すシグリッド。
その振る舞いは、兵士というよりもどこぞの貴族令嬢を思わせた。
「グルルル……」
さっき食べたばかりなのに、腹の虫が再び目を覚ます。
急いで振り返ると、耳を真っ赤にしたナンナが顔を押さえて立っていた。
「あれ、貰えるのかな?」
アイリは口角に指を置きながら、炊き出しの様子を眺めていた。
「そちらの方もどうぞ。冷めないうちに召し上がってくださいね。」
アイリの視線に気付いたシグリッドはこちらに器を差し出した。
満面の笑みで器を受け取ったアイリは、鶏肉の香ばしい香りに目を輝かせると、夢中で頬張っていた。
「蒼穹の誓いだよな……。」
……つい先ほどまで抱いていた彼らへの不信が、音もなく崩れ落ちていくのを感じた。
「気に入って頂けているようで良かったです。おかわりもありますので、たくさん食べて下さいね。」
アイリの様子を見て、シグリッドが声を掛けてきた。
柔和な笑顔。
滲み出る気品。
そのどれもが、この世界でこれまで目にしたことがなかった。
「あの……?どうして、頂けるんですか?」
ナンナは器を持ちながら……、それでも眉をひそめている。
確かに。
弱肉強食が当たり前のこの世界では、この慈善行為は明らかに異質だった。
「治安維持のためとはいえ、門を封鎖せざるを得なくなってしまいましたので。せめて、これくらいは……。」
シグリッドは伏し目がちに呟いた。
「これを毎日ですか?」
「いえ、門を開放するまでと聞いています。あと三日もすれば、開くと思いますよ。」
「良かった。」
器に顔を埋めるようにしていたアイリが、満足そうに呟いた。
「これを毎日食べられるんじゃ、『斧と杯』にお客さんが来なくなるもん。」
ぷっはぁ――
アイリは息を吐き、満足そうな笑みを浮かべて器をシグリッドへ差し出した。
「あっ、おかわりお願いします。」




