第四十八話 残された三日
アルクを先頭に、僕たちは酒場への道を歩いていた。
石畳には朝露が淡く光り、眠っていた街もゆっくりと目を覚まし始めていた。
――パンを焼く香ばしい匂い。
――店先を掃く音。
荷車を引く馬の蹄が、石畳を軽やかに鳴らす。
「ブルルル……。」
時折、アルクが上機嫌に鼻を鳴らす。
その音を聞くたび、アイリは小さく笑って首筋を撫でていた。
ほんの少し前までの緊張が嘘のような、穏やかな朝だった。
「まったく……心配ばかりかけやがって。」
リッカは苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
「ほんとうだよ。今度は勝手に出ていかないようにしないとね。」
そう言って、アイリはアルクの鼻先を人差し指で軽くつついた。
「それは……ないな。」
アルクの少し後ろを歩いていたエイナルが口元だけで小さく笑った。
「そんなの、どうして分かるの?」
アイリの問いに、エイナルは『やれやれ』と言いたげに肩をすくめた。そして、答える代わりに僕へ視線を向ける。
(なんで僕を見るんだよ……。)
僕は一度息を整えてから口を開いた。
「アイリ。アルクは勝手に出ていったんじゃない。……たぶん、誰かに連れ去られたんだ。」
「えっ……! 誰が、なんで、どうやって?」
好奇心を抑えきれないアイリは、ぐいっと身を乗り出し、僕の顔を覗き込んできた。
……近い。
「まぁ、落ち着け。慌てないで、一つずつ考えてみようか。」
「まずは、昨日ニンジンが無くなったのは覚えているか?」
「あぁ、うん。あったわね、そんなこと。」
「……それで?」
「おそらく、あのニンジンはアルクが食べたんだ。」
「なぁんだ、そっか。それなら良かった。」
「……あれ? でも、どうやって食べたの?」
「誰かに食べさせてもらったんだろ、おそらくな。」
「その誰って……。」
「ニンジンを盗んだ犯人さ。」
「ニンジンを盗んで、アルクにあげたの?」
僕はコクリと頷いた。
「それじゃあ、一体誰が盗んだの?」
「先ほどの門兵だ。」
僕は西門の方へ顎をしゃくった。
「えっ!?」
「人には滅多に懐かないアルクが、あれだけ自然に顔を近づけた。しかも、ご丁寧に手まで食べようとしたじゃないか。」
僕は歩くアルクのたてがみを軽く撫でた。
「おそらく、直前までその門兵からニンジンをもらっていたんだ。」
アルクへ視線を向け、僕は考えを整理するように言葉を続けた。
「だから、さっきもニンジンがもらえると思って近づいたんだろう。」
「あっ!? ニンジンで誘い出したの!」
「そう。あの門兵は酒場に置いてあったニンジンを盗み、それを餌にアルクを西門まで誘い出したんだ。」
「でも、なんでそんなことを……?」
アイリは小さく首を傾げた。
「さぁな。僕たちがアルクを乗り回して治安を乱すとでも思ったか、それとも……。」
「そう言えば、エイナル。あの門兵は知り合いか?」
「……昔、少しな。」
エイナルは視線を逸らし、小さく肩をすくめた。
それ以上は話す気がないらしい。
「何にしても、アルクは良くも悪くも目立つ。これからは一層気を引き締めないと。」
僕はアルクの背中へ視線を送った。
「あぁ、そのようだな。」
リッカは僕たちを見回し、静かに頷いた。
胸を締めつけていた不安から、ようやく解放されたはずなのに……。
四人は新たな不安にしばらく黙ってしまった。
エイナルは無意識に左手を握り締め、小さく息を吐いた。
「……あと三日、か。」
誰にも聞かせるつもりのないような、小さな呟きだった。
「何か言ったか?」
リッカが振り向く。
「いや。」
エイナルは短く答えると、それ以上何も言わず前だけを見て歩き続けた。
その横顔だけが、穏やかな朝の景色から取り残されているようだった。
◇
『臨時休業』
木扉に張り出された四文字。
酒場『斧と杯』の煙突から白煙が上らない日など、おそらく後にも先にも今日だけだろう。
予想通り――
店の前には腹を空かせたプレイヤーたちが集まり、『嘘だろ!』『今日に限って!』と悲鳴にも似た声を上げていた。
「リッカさん、本当に良かったんですか?みんな騒いでますよ。」
ナンナは小窓から外の騒ぎをじっと眺めていた。
「あぁ、ほっとけ、ほっとけ。」
リッカは大きな欠伸を噛み殺しながら、追い払うように手をひらひらと振っていた。
(ここで煙草なんて咥えてたりしたら、ますます婚期を逃すだろうな。)
そんな余計な心配をしながら、僕は椅子に腰を下ろした。
「まったく、こんな時にあいつらは呑気なもんだ。」
リッカは店内を見回し、肩を落とした。
アイリは『アルクが心配』と厩に張り付き、エイナルに至ってはさっさと自室へ引き上げてしまっていた。
「ごめんなさい。 まさか、アルクさんがそんなことになっていたなんて……。」
ナンナは今にも泣きそうな顔で俯いていた。
「気にするな、ナンナのせいじゃないさ。結局、アルクも無事だったんだし。良かった、良かった。」
僕はナンナの肩をポンと叩いて、グラスの水を飲み干した。
「おい、まさか、本当に……これで終わりだと思っているのか?」
カウンター近くのテーブルで突っ伏している人影。
――アルセリオンだ。
どうやら、昨晩のエールがまだ残っているようで如何にも体調が悪そうである。
「うっぷ。」
「大丈夫ですか、アルセリオン。」
ナンナは慌てて駆け寄ると、献身的に彼の背中を擦っている。
(あれ? いつの間に「さん」が消えたんだ……。)
アルセリオンは深く息を吐き、ようやく顔を上げた。
「あいつ、相当ヤバいだろ。」
そう言って、二階へ視線を向けた。
「どういうことですか?」
ナンナは背中を擦る手を止め、不安そうにアルセリオンを見つめた。
「ナンナ。エイナルは昔、どこにいた?」
「霧影の盟約……。」
アルセリオンは静かに頷いた。
「あぁ。奴らはPKだって何とも思っちゃいない犯罪者集団だ。」
膝の上で両手を組み、視線を落とした。
「そいつらに喧嘩を売ったんだ。ただじゃ済まないことくらい、本人がよく分かってるはずだ。」
「それなら大丈夫じゃないか。圏内にいる分にはPK……なんてことはないはずだ。」
リッカは自分に言い聞かせるように、小さく頷いた。
「だと良いがな。」
アルセリオンは視線を落とし、苦い表情のまま短く答えた。
「そんな……。」
ナンナは胸元でぎゅっと両手を握り締め、アルセリオンはしばらく二階を見つめていた。
「そもそも、あいつを本当に信用していいのか……。俺にはまだ、あいつを測る物差しがない。」
「そうだな。でも、できることなら信じたい。」
そう言い残し、僕は席を立って二階へ向かった。
一段上がるごとに踏板が軋む。
これまで気にも留めなかったその音が、今日はまるで音階を刻むように、どこか軽やかに耳に響いた。
「エイナル……。」
僕は扉越しに声を掛けた。
耳を澄ませたが、やっぱり返事はない。
それでも――
「エイナル。今日は本当にありがとう。」
「アルクをまた失うかもしれない……。そんなことが頭をよぎった瞬間、冷静じゃいられなくなってた。」
「だから……、お前がいてくれて、本当に良かった。」
「ありがとう。」
――扉の向こう。
エイナルは握り締めていた左手を、ゆっくりと開いた。
「…… ……。」
ありがとう。
その言葉が耳から離れない。
「本当に甘い奴だな……。」
エイナルは目を閉じ、小さく呟いた。
「……あと三日。」
その口元だけが小さく緩んでいた。




