第四十七話 蹄の導き
「ユマーク、大変だ! アルクが……いない。」
扉越しにリッカの声が響いた。
魔物の大群を前にしても眉一つ動かさない彼女にしては珍しい。それだけで、事態の深刻さが伝わってくる。
その声に真っ先に反応したのはアイリだった。
普段なら、見事な寝相を披露し、叩き起こそうとしてもなかなか目を覚まさない彼女が、今日ばかりは違った。
跳ね起きるように身を起こすと、鋭い眼差しを扉へ向ける。
――もしかすると、アイリの《勘》も何かを感じ取ったのかもしれない。
アイリは僕と目が合うや否や、窓へと視線を向けた。
「アイリ、ちょっと……。」
――その瞬間。
アイリは窓を勢いよく開け放つと、ためらいもなく窓枠を蹴り、そのまま外へ飛び出した。
「うっそ――」
僕も慌てて窓から外を覗き込んだが、そこにはもうアイリの姿はなかった。
僕も続いて……と思ったが、ここは二階。
しかも、他の建物より高い造りだ。
未だ夢の中のナンナに『ごめん』と心の中で謝ると、僕は素直にリッカと一緒に厩へ向かった。
外はまだ夜明け前の薄闇に包まれていた。
東の空はかすかに白み始めていたが、足元を照らすにはまだ心許ない。
それでも僕たちは、静けさの残る石畳を必死に駆け抜けた。
酒場の角を曲がり、アイリが飛び降りた窓を横目に裏手へと回る。
視界が開ける――
そこには、薄闇に沈む簡素な厩。
その前で一人の少女が立ち尽くしていた。
――アイリだ。
木の柵と簡素な庇。
急ごしらえとは思えないほど丁寧に造られ、床には藁が敷き詰められている。
――壊れた様子は……ない。
それでも、昨日までアルクが藁を食んでいた場所だけが、ぽっかりと空いていた。
「アルクが……どっか行っちゃった。」
僕らに気付いたアイリが、ぽつりと呟いた。
その表情は、以前にも見たことがある。
あの日――
地面に伏したアルクを、連れて帰ってやれなかったあの時と同じだった。
「店の片付けが終わって様子を見に来た時には、もういなくなってたんだ。」
リッカは悔しそうに目を伏せた。
そして、三人はしばらく言葉を失う。
「所詮はNPC。ただ、それだけのことだろ。」
静寂を切り裂くように響いたその声に、僕たちは一斉に振り返った。
そこにいたのは、エイナルだった。
「まったく……急に消えたと思ったら……。」
「こんなところで油を売ってやがったのか。」
頭を掻きながら歩み寄ってくるエイナル。
アイリは、その姿を見た瞬間――
今にも噛みつきそうなほど鋭い視線を向けた。
だが、それでも彼はどこ吹く風といった様子で肩をすくめていた。
「あの馬……NPCなんだろ。だったら一定の時間が経てば、元の居場所に戻るんじゃないのか。」
アイリでは話にならないと思ったのか、エイナルは僕へ視線を向けた。
確かに――
この世界は広大なオープンワールドだ。プレイヤーは行きたい場所へ自由に行ける。
だが、NPCはその限りではない。
意思を持たないNPCは、決められた行動範囲から外れることはできない。
それは、VRMMOではごく当たり前の仕様だった。
この世界で過ごす時間が長くなりすぎたのだろう。
そんな当たり前のことすら、僕は忘れかけていた。
胸に去来したのは、ただ寂しさだけだった。
それは隣にいたアイリやリッカも同じようだった。
エイナルは昨日までアルクがいた厩をぐるりと見渡すと、静かに木柵へ手を伸ばした。
「おい、ちょっと待て。」
その時、エイナルの目が何かを捉えた。
「どうしたんだ?」
僕たちも慌てて駆け寄る。
リッカが木柵を覗き込むと、小さく息を呑んだ。
「これは……あれだよな。」
「そうね……あれね。」
「だから、何なんだよ。」
リッカは木柵の脇にしゃがみ込むと、小さな橙色の欠片を摘み上げた。
「これ、アルクのおやつにしようと思って取っておいたニンジン。」
「はぁ。んっ……取っておいた?」
僕は眉をひそめ、小さく首を傾げた。
「あぁ、良いのが手に入ったからな。アルクのために取っておいたんだが、気付いたら無くなっていたんだ。」
エイナルも腕を組み、小さく唸った。
(アルクに餌をやろうとする奴と言えば……。)
僕はアイリへ視線を向けたが、彼女は『知らない』と言いたげに首を横へ振る。
じゃあ、ナンナ……。
いや、彼女は黙ってそんなことはしない。
「じゃあ、一体誰が……。」
「おい、見てみろ。蹄の跡だ。」
エイナルが指差す先へ目を向ける。
柵の外――
薄く湿った土の上に、蹄の跡がくっきりと刻まれていた。
それは、迷いなくどこかを目指すように続いている。
「やっぱり、アルクはただのNPCなんかじゃない。」
蹄の跡は消えていない。
アルクはシステムに従って消えたわけじゃない。 自らの意思で歩き出した。
――そんな気がしてならなかった。
それなら、まだ追いつける。
胸の奥の不安が、一筋の希望へと変わっていく。
「まだだ。まだ終わっていない!」
僕は柄にもなく叫ぶと、蹄の跡を追って駆け出した。
――
蹄の跡は、石畳の途切れた土の上にだけ姿を現した。
僕は目を凝らし、それを見失わないよう追い続けた。
まだ間に合うかもしれない。
その思いが胸を突き動かし、気づけば足は自然と速くなっていた。
やがて、朝靄の向こうに西門が姿を現した。
門前には数人の兵士が立ち、街の出入りを見張っている。
その足元から先へ――
蹄の跡は、門の外へ向かって真っすぐ続いていた。
「もしかして……、圏外に出たってこと?」
アイリが不安そうに門前の兵士たちへ視線を向けた。
「そのようだ……。でも何か変じゃないか?」
「何が?」
アイリは首を傾げた。
「だって、アルクが通ったにしては、みんな静かすぎる。」
そうだ――
この門は常に監視されているはずだ。
今は冒険者でさえ自由に出入りできない。
それなのに、アルクが門を抜けた。
見逃されるはずがない。
「ちょっと良いか!」
僕は門前の兵士へ駆け寄った。
「この辺で鹿毛の馬を見なかったか?」
「なんだ? お前たちは。」
兵士たちは揃って怪訝そうな表情を浮かべた。
「もう、ユマくん。そんな聞き方は失礼よ。」
アイリは咳払いを一つ。
「……私たちは大切な友人を探しているの。」
アイリは静かに門兵を見据えた。
「だから、そこを退いて。」
門兵たちの表情が明らかに引きつる。
だが、アイリ本人は至って真剣だった。
(……どっちが失礼なんだよ。)
「友人だぁ? そんなのは知らんな。」
門兵の一人が、面倒そうに吐き捨てた。
「こっちは忙しいんだ。さぁ、帰った、帰った。」
門兵は追い払うかのように手で払った。
「そうか……。だが。」
僕は一歩、門兵へ近づいた。
「こっちも、友人の命が掛かってるんだ。」
「邪魔をするなら――容赦はしない。」
言ってから、自分でも少し驚いた。
まるでアイリみたいな言葉が、自然と口をついて出ていた。
「なんだ! 我々に逆らう気か!」
門兵が声を荒げる。
だが、その声はわずかに上ずっている。
強気な言葉とは裏腹に、そこには明らかな動揺が見えた。
一触即発
―― そんな空気が周囲を包んだ、その時だった。
遠くから響く蹄の音。
続いて聞こえてきたのは、重い車輪が石畳を擦る音だった。
朝靄の向こうから一台の荷馬車が姿を現した。
そして、先頭で力強く歩を進める一頭の鹿毛馬。
艶のある鹿毛。
見慣れたたくましい体躯。
間違えるはずがない。
「……アルク!」
僕とアイリの声が重なった。
静止しようとする門兵を振り切って、僕らはアルクに駆け寄った。
「ブルルル……。」
僕たちに気付いたアルクが、いつもみたいに機嫌よさそうに鼻を鳴らした。
文句の一つでも言ってやろうと思っていた。
それなのに、その顔を見た途端、そんな気持ちは一瞬で消えた。
ただ、無事だった。
それだけで十分だった。
「おい! お前ら――!」
そんな感動の再会を遮るように、門兵たちの怒号が響いた。
「その馬から離れろ。さもないと……。」
その言葉を聞いた瞬間、アイリの表情から穏やかさが消えた。
そして、鋭い眼差しが門兵たちを射抜く。
(ヤバいな。完全にキレてる……。)
「なんだ、そんなところにいたのか。心配したぞ。」
背後から響いた豪快な声に、張り詰めていた空気がわずかに揺らぐ。
「リッカさん。」
「なんだ!? お前……。」
リッカの姿を見た瞬間、門兵は言葉を失った。
リッカが一歩前へ出る。
それだけで、門兵たちは思わず息を呑んだ。
「く、くっ。」
「こ、こいつらはシオン様の命に背いてだな……。」
門兵の額から汗が流れ落ちる。
だが、彼らにも彼らなりの矜持があるのだろう。 簡単には引き下がれないらしい。
「はぁあ。シオンはもう王様気取りってか。」
リッカの隣から聞こえる飄々とした声。
元鴉のエイナルだ。
彼はゆっくりと門兵へ歩み寄る。
「……ん?」
エイナルの歩みが止まった。
値踏みするような視線が一人の男をゆっくりとなぞる。
「お前、どこかで……。」
その瞬間だった。
アルクが低く鼻を鳴らし、その男の手へ噛みつくように顔を伸ばした。
エイナルの目が鋭く細まる。
「なるほどな。」
エイナルは口元をわずかに歪めた。
「帰って、お前らの主人に言っとけ。」
「アルクには、もう二度と手を出すな――そう伝えろ。」
エイナルの肩を、リッカがぽんと叩いた。
「帰るぞ。」
その言葉に応えるように、アルクは何事もなかったかのように鼻を鳴らした。
今は、その音だけで十分だった。




