第三十九話 迎え太刀
「ちょ、ちょっと……。」
「お願いですから……、通してくださ〜い!」
一歩踏み出したまでは良かったが……。
押し寄せる群衆の波に、ナンナの身体はあっという間に飲み込まれてしまった。
逃げ惑う群衆、飛び交う怒号。
小柄なナンナでは、人の流れに逆らうことなどできるはずもなく……。
押され、流されるうちに、自分がどちらを向かっているのかさえ分からなくなっていた。
「……違う。そっちじゃない。」
人の流れと微かに触れる花の香り。
向かうべき場所には少しだけ心当たりがある。
――東門。スズランの咲くあの場所だ。
それなのに、自分の身体は、人波に弄ばれるばかりだった。
「おい、嬢ちゃん。しっかりしな!」
不意に飛び込んできた声。
声の主はナンナの腕をギュッと掴んだ。
そのゴツゴツとした手は、荒波に打ち込まれた錨のようだった。
「ガルドさん! ……なんだ、ガルドさんかぁ。」
「おい、露骨にがっかりするな。流石に傷つくだろうが。」
見慣れたフルプレート。
アイリに『ガルガルさん』なんて呼ばれて、満更でもない表情を浮かべるフルプレート三人組の一人だ。
「あっ。いえ、なんでもありません。こっちの話です。」
「最近、ますますお嬢に似てきたな。ユマークも苦労してるんじゃねぇか?」
ムスッと頬を膨らませるナンナに、ガルドは苦笑を漏らした。
「それより、こんなところで何してるんだ? あっちは危険だぞ。」
「何があったんですか?」
「その話は後だ。今は取り敢えず、場所を変えるぞ。」
そう言うと、ガルドはナンナを庇うように前へ立ち、自らを盾代わりに、人波を押し分けながら歩き出した。
「あ、ありがとうございます。」
礼を口にしながらも、ナンナの視線はどこか落ち着きなく、人混みをさまよっていた。
「それより他の二人はどうした。はぐれたのか?」
「あっ、いえ。それは……。」
ナンナが一瞬、躊躇いを見せたその時――
「うわぁぁぁ!」
再び、悲鳴が響く。
――今度は近い。
続いて、鈍い金属音が重なる。
それも、一つじゃない。
乱れた呼吸と悲鳴に紛れ、四方から鳴り響いた。
「えっ……誰か戦ってる? ここは圏内なのに……、なんで?」
ガルドの表情が険しく曇る。
彼は鋭い眼差しで、音のする方を見据えた。
「……鴉か。」
「えっ! まさか……街の中に魔物が?」
ナンナの言葉にガルドは静かに首を振る。
「いや! さっき、黄昏の航路の連中が慌てて駆けていくのが見えた。奴らが追うとしたら……。」
「……《霧影の盟約》だ。」
「連中は皆、『鴉』って呼んでる。」
ナンナはハッと息を呑んだ。
シオンを襲った暗殺者。
そして、東の湿地帯で自分たちの命を狙った黒装束。
――エイナルさん。
「彼なら今、『斧と杯』で……。」
そこまで言いかけて、ナンナは口をつぐんだ。
まだ、彼が犯人だと決まったわけじゃない。 あの酒場でひたむきに働く姿を知っている。
どうしても、彼がそんなことをするとは思えなかった。
だとしたら、その仲間……。
「……何か心当たりでもあるのか?」
「い、いえ……。」
ナンナの返事は、かすかに震えていた。
ガルドはその様子を一瞥したが、それ以上は何も聞かなかった。
「とりあえず、ここは俺に任せろ。嬢ちゃんは酒場へ戻って待って……。」
ガルドの言葉も待たず――
弓に手を掛けたナンナは、瞬きする間もなく一射。
風切り音がガルドを掠める。
「おい! なにを……。」
ガルドの言葉を遮るように、背中に響く悲鳴。
ナンナの矢は、黒頭巾だけを掠めるように貫いていた。
「……やっぱり、違う。」
黒頭巾の奥に見えた顔は、見覚えのない男だった。
「さぁ、ガルドさん。早く行きますよ。」
ナンナは小さく笑みをこぼすと、そのまま駆け出した。
「……やれやれ。本当にお嬢に似てきたな。」
ガルドは肩をすくめると、観念したようにナンナの後を追いかけた。
二人は人波をかき分け、東門へと急いだ。
やがて視界が開けた、その瞬間――――
「どうして、こんな……。」
《遠視》スキルで戦況は見えていた。
だが、血の匂いも、悲鳴も、肌を刺すような殺気も、その場に立って初めて知るものだった。
「ひっでぇな。」
さすがのガルドも、眉をひそめて息を呑んだ。
一個小隊並の戦力を投入し、数で圧倒する『黄昏の航路』であったが、奇襲や暗殺を得意とする『霧影の盟約』の戦術に翻弄され、各所でプレイヤーが次々と斃れていった。
物陰から姿を現す黒装束。
闇へ溶け込むように身を潜めていても、その頭上にはPKを示す赤いタグが妖しく灯っていた。
「だめぇ!」
ナンナは咄嗟に弓を構え、レッドタグに照準を合わせた。
「ダメだ! それじゃ嬢ちゃんが赤タグになっちまう!」
ガルドが叫ぶ。
だが、限界まで引き絞られた弦は、もはや解き放たれるしかなかった。
ビンッ――!
気がつけば、指は弦を離れていた。
その瞬間、ナンナはハッと目を見開き、頬からさっと血の気が引いた。
ガルドも苦々しく顔をしかめる。
互いに脳裏をよぎったのは、同じ最悪の結末だった。
キィンッ!
《迎え太刀》
剣閃が走る。
ナンナの矢は弾かれ、そのまま空高く舞い上がった。
「おっと、危ない危ない。」
軽い調子とは裏腹に、長剣を構える姿にはまるで隙がない。
風に靡く赤髪と光を宿した真っ直ぐな瞳。
――アルセリオン。
その姿を見た瞬間――
張り詰めていた糸がぷつりと切れ、ナンナはその場に崩れ落ちそうになった。
「よっと。」
アルセリオンは素早く駆け寄ると、肩に手を添えてナンナを支えた。
「す、すいません……、アルセリオンさん。」
ナンナは申し訳なさそうに視線を伏せた。
「いや、それより……。」
アルセリオンは目線を合わせるように軽く身をかがめると、頭をかきながら困ったように笑った。
「速射、一段と上手くなったね。びっくりしたよ。」
「正直、ちょっと焦ったよ。」
その言葉を聞いた瞬間、ナンナの表情がぱっと華やいだ。
それを見届けると、アルセリオンは静かに戦場へ視線を向けた。
穏やかな笑みは消え、その瞳には鋭い光が宿っていた。
「それじゃ、さっさと終わらせるか――」
アルセリオンは長剣を肩へ担ぐように構え、ガルドへ振り返る。
「そこの大盾使いさん。ちょっと手伝ってもらえるかな?」
ガルドは肩に担いでいた大盾をどんと地面へ下ろすと、口元をニヤリと歪めた。
「おう。任せとけ。」
「あ! あの、私も……。」
一歩踏み出したナンナを見て、アルセリオンはふっと笑みを浮かべる。
「もちろん、頼りにしてるよ。」
アルセリオンはそう言って軽く頷くと、再び前を向いた。
「じゃあ、行こうか。」
アルセリオンの言葉を合図に大盾を構えたガルドが前に出る。
異変に気づいた鴉たちは短剣を抜き、一斉に距離を詰めた。
「悪いな。ここは通さねぇよ。」
《盾衝》
大盾が唸る。
ガルドの突進を受け止めきれず、黒装束が宙を舞った。
「お見事!」
「アルセリオンさん、右です!」
ナンナの言葉が飛ぶ。
倒れた仲間を囮に、別の鴉が物陰から姿を現したが、ナンナの《遠視》がそれを逃さない。
「了解!」
《迎え太刀》
弧を描く剣閃――
迎え撃った一撃は、鴉の短剣の軌道だけを正確に逸らした。
次の瞬間、黒い刃が宙を舞った。
「なんだ、こいつら。」
鴉たちの足が止まった。
つい先程まで戦場を支配していたはずの彼らが、初めて距離を取った。
黒頭巾の奥から覗く瞳には、わずかな動揺が浮かんで見えた。
奇襲も、死角からの一撃も通じない。
三人の連携は、まるで一つの意思を持ったかのようだった。
「くっ……、そろそろ潮時だな。」
一人の鴉から小さな呟きが漏れる。
「あっ、逃げます!」
「逃がすか!」
ナンナの声に、ガルドはすぐさま踏み出した。
だが、その前へアルセリオンが静かに一歩割って入った。
「待って。」
「何故だ! あいつらを野放しにする気か?」
ガルドの鋭い眼差しがアルセリオンを射抜く。
「あぁ、分かってる。」
アルセリオンは視線だけを戦場へ向けた。
「だけど、深追いはしない。」
「……もう、あいつらの目的は果たされてる。」
その視線の先には、『黄昏の航路』のプレイヤーたちが力なく倒れていた。
「それに――」
アルセリオンは東門の外へ消えていく黒装束を見据える。
「あいつらが、どうやって圏内でプレイヤーキルを成立させたのか……まだ分かっていない。」
ガルドはハッと息を呑む。
「正体の分からない罠に、自分から飛び込む必要はない。」
アルセリオンはゆっくりとナンナの前まで歩み寄った。
「それに、圏外から戻ったばかりでさ。朝から何も食べてないんだ。」
優しく目を細めると、いつもの調子で笑った。
「ねぇ、今日のおすすめは何かな?」
戦場には似つかわしくないその一言に、ナンナは思わず吹き出してしまった。
気づけば、その頬にはいつもの穏やかな笑みが戻っていた。




