第三十七話 笑ってくれたなら
パタン。
扉の閉まる音で僕は目が覚めた。
外はまだ薄暗いというのに、じっとりと汗がまとわりつく。現実世界で言えば、そろそろ夏休みといったところか。
今の僕たちには、もうその感覚すら薄れかけている。
それだけ、この仮想世界が僕たちの現実になりつつあるということだ。
身体を起こすと眼前には芸術的な寝相を披露する二人組。
この二人が僕より早起きなんて、あり得ないか……。
だとすれば、後は一人しかいない。
昨日から文字通り、同じ屋根の下で暮らすことになったあの黒装束。
――エイナルだ。
奴も僕たちと同じように行く宛はなく、たまたま空いていた向かいの部屋を使うことになった。
最初、ナンナは明らか不満そうな顔を浮かべていたが、厄介になっている僕たちには、リッカの決定に口を出すことなどできるはずもない。
(それにしても、何故こんな朝早くに……。)
一抹の不安が胸をよぎる。
エイナルは《霧影の盟約》の一員だ。
昨日、僕たちもこいつに騙され、危うく命を落としかけたばかりだ。
疑うなという方が難しい。
僕は眠い目を擦りながらそろりと階段を降りた。
乾いた枝が床を擦る音を頼りに視線を向けると――
「あっ。」
白樺の小枝を束ねた枝箒で床を掃くエイナルと、ふと目が合った。
妙に様になっているその姿は、まるで昔からここで働いていたかのようだった。
「お、おはよう。」
僕は一瞬、目が泳いでしまったが、それでも努めて落ち着いて挨拶をした。
だが、返ってきたのは短い会釈だけだった。
『手伝おうか?』と声を掛けようかとも思ったが、今は何だか違う気がした。
気まずさに耐えきれなくなった僕は、ひとまず部屋へ戻ることにした。
「さて、今日はどうしようか?」
近頃、色々とありすぎて肝心な事が疎かになっている気がする。
――現実世界への帰還。
これは僕たちの悲願だったはずなのに、目まぐるしく変わる情勢に振り回され、なかなか前へ進めずにいる。
そろそろ、あれを試してみてもいいかもしれないな……。
そんなことを考えながら、部屋の扉を開けると――
「あっ!? ちょっと、開けないで下さい!」
慌てて飛んできたナンナは、まだ上着の袖を片方しか通しておらず、そのまま勢いよく扉を押し返した。
「えっ!?」
危うく鼻をぶつけそうになりながら、僕は廊下へ押し出された。
「……もう大丈夫です。」
部屋へ戻ると――
身支度を終えたナンナがベッドに腰掛けていた。
きれいに整えられた髪には見慣れないリボンがちょこんと結ばれている。
「……あれ?」
いつもより、おめかししている。
一瞬気になったが、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせるナンナを見ていると、なんだかこちらまで申し訳ない気分になった。
「ご、ごめん。」
「だから、ノックぐらい……して下さい。」
いつもなら、ここで終わる話なのだが……。
さっきまで寝息を立てていたアイリまで起きている。
しかも、『むっす〜』と唇を尖らせて、見るからに機嫌が悪い。
さっきのことを見ていたせいか……。
いや、部屋へ戻るタイミングが悪かったことなんて、これまでだって何度かあった。
その時はケラケラ笑いながら転げ回り、逆にナンナに叱られていたくらいだ。
試しに、お腹が空いているのかと昨日買っておいたカルダモンロールを差し出してみた。
だが、彼女は黙ってひったくるように受け取ると、モグモグ頬張るのみで一言も話そうとしない。
「……ナンナ、何か知ってるか?」
「それがですね……、私にもさっぱり分からないんですぅ。」
ナンナは腕を組んで「う〜ん」と考え込んでみたものの、最後は『さあ?』と言わんばかりに肩をすくめた。
昨日までは、特に変わった様子はなかった。
強いて言えば、エイナルが酒場を手伝うようになったことくらいだ。
だが、その時のアイリは別に気にしている様子もなかった。
(だったら、僕の思い過ごしか……。)
「えぇっと……、アイリ。今日はどうする?」
今度は何ごとも無かったかのように話し掛けてみた。
僕の声にアイリは一応振り向いてはくれたものの、やっぱり返事は返ってこなかった。
僕は大きく息を吐いた。
「あのぉ、今日はちょっと行きたいところがあるんですが……。」
ナンナが申し訳なさげに手を上げた。
彼女が自らしたいことを言うのは珍しい。
「あぁ、そうか。それで、どこに行きたいんだい?」
「いや、その……。」
モジモジとしたナンナはなぜか歯切れが悪い。何か言えないことでも……。
(……まさか。)
僕は思わず口元が緩む。
ナンナが僕たちに言えないことなんて、そう多くない。
「……分かった。それじゃ、部屋にいてもなんだし、出掛けようか?」
ナンナがコクリと頷いた。その横でアイリは一度こちらに視線を向けたが、すぐに『ぷいっ』と背を向けた。
僕はもう一度、溜息を零してから出掛ける用意を始めた。
◇
ジリジリと焼けつくような暑さ。
石畳の照り返しがそれに輪をかけ、額を伝う汗は止まる気配がない。
僕とナンナがこの茹だるような暑さに苦戦する中、後ろを歩くアイリも同じく苦しそうな表情を浮かべていた。
「アイリ、大丈夫か?」
やはり返事はない。
聞こえているはずなのに、今日のアイリは意地でも口を利こうとはしない。
一方でナンナはナンナで、キョロキョロと辺りを見回し、視線が落ち着かない。
噴水広場が近づくにつれ、その足取りまでどこかそわそわし始めた。
すでに噴水の周りは多くの人で賑わっていた。
この世界の文明レベルは中世に近く、当然エアコンなんて便利なものはない。
かといって、暑さを和らげるような都合のいい魔法があるわけでもない。
だから皆、少しでも涼を求めて噴水の周りに集まってくるのだろう。その人混みの中を、ナンナは落ち着かない様子で何度も見回していた。
「ナンナ。」
僕は不意に彼女を呼び止めた。
「この炎天下じゃさすがに疲れたよ。僕たちはここで休んでいるから……先に行ってきなよ。」
その言葉にナンナの顔がパッと明るくなった。
「うん、分かった。それじゃあ、後で!」
手を振りながら駆け出したナンナ。
何故かナンナについて行こうとしたアイリの袖口を、僕は慌ててギュッと掴んだ。
《ギロッ》
アイリの視線は鋭く突き刺さる。
それでも、今だけはこの手を離すわけにはいかなかった。
次第に小さくなっていくナンナの背中を見送りながら、僕はアイリが観念するのを待つしかなかった。
「なぁ、アイリ。ちょうど、あそこが空いたから座らないか?」
僕が指差した先は噴水の縁、ちょうど二人分のスペースが空いていた。
アイリは大きく息を吐いてその縁に座った。それを確認した僕も続いてアイリの隣に腰掛けていた。
しばらく、沈黙が流れた後――
「ユマくん、良いの?こんなところにいて。」
アイリの声は周囲の喧騒に掻き消されそうなほど小さな声だった。
でも、何よりようやく口を開いてくれたことが僕は嬉しかった。
「あぁ。少し休んだら、北門に行ってみよう。試したいことが……。」
「……そうじゃなくて。」
アイリは僕の言葉を遮った。
その声はいつもの彼女からは考えられないほどに弱々しかった。
「ユマくんはリッカさんのこと、心配なんでしょ。」
(……!?)
一瞬、何の話か分からなかった。
それでも、酒場の看板娘が話題に出るということはきっと昨日のことだろう。
「あぁ、昨日は本当に危なかったよな。」
僕の言葉にアイリは一度視線を上げたが、すぐに俯き黙ってしまった。
「エイナルが何か仕出かすんじゃないかとヒヤヒヤしたよ。リッカさんを怒らせたら、ただじゃ済まないよ。」
「きっと、エイナルの奴。ぺちゃんこになっちゃうよ。」
「へぇ?」
アイリがゆっくりと顔を上げる。
「リッカさんは分別のある人だとは思うけど、万が一ってこともあるからな。」
「それって……。」
「それ?」
「ほら、もしリッカさんまで赤タグホルダーになったら、アイリだって嫌だろ?」
「う、うん。」
アイリは小さく頷くと、ふいっと視線を逸らした。さっきまで尖っていた唇も少しだけ緩んで見えた。
「あれ? 耳まで真っ赤じゃないか。熱でもあるのか?」
心配になった僕は、そっと手の甲をアイリの額に当てた。
「ひゃぁ?」
驚いたようにアイリの肩がビクンと跳ねたものの、不思議と僕の手を振り払おうとはしなかった。
「……どう?」
アイリが小さな声で尋ねた。その口元には、さっきよりも柔らかな笑みが浮かんでいた。
「う〜ん、分からん。」
「なにそれ……。」
アイリがくすっと笑った。
その笑顔を見た瞬間――
(あぁ。)
今日ずっと胸につかえていたものが、すっと軽くなった気がした。
思わず吹き出した僕につられて、アイリも堪えきれなくなったように笑い出した。
気が付けば、二人で噴水の縁に座ったまま、声を上げて笑っていた。
「じゃあ、そろそろ行こうか。」
「うん。」
弾むようなアイリの返事。
やっぱり、これがないと始まらない。
「何ニヤニヤしてるの? 早くしないと置いてくよ。」
そう言うとアイリは僕を待たずに駆け出していった。
風になびくその背中は、ヴァルプルギスの夜に初めて出会った、あの頃のアイリそのものだった。




