第三十六話 人には言えないこと
「おい……、今日はなんの嫌がらせだ?」
蜂蜜をたっぷり染み込ませて焼き上げた菓子の甘い香り。そこへシナモンとカルダモンの異国めいた香辛料が重なり、店先は食欲をそそる誘惑に満ちていた。
そんな香りさえ押しのけて、今もっとも注目を集めているのは、一人の店主――バルドだ。
二組のつぶらな双眸が、冴えないその男をまじまじと見つめている。
「えぇい、やめんか!」
『営業妨害だ』とばかりに、僕はアイリとナンナを店先から引き離した。
「……納得ですね。」
ナンナがぽつりと呟く。
「う、うん。」
ついでアイリも深く頷いていた。
「おい、ユマーク。本当になんなんだ、一体?」
「実はですね……、」
ナンナが真面目な顔で答えようとしたものだから、僕は思わずその小さな口を手で覆った。
「で! 結局、買うのか買わないのか。どっちだ?」
バルドは眉をひそめて僕に視線を送った。
依頼主バルド――。
その嘘を確かめたいとナンナが言うので、買い出しついでに訪れたのだが……。
妙に納得した様子の二人を見ていると、なんだかバルドが不憫でならなかった。
「あぁ、そうそう。今日は久しぶりにフルーツサンドが食べたくなっちゃって。」
そう言って、アイリは屈託のない笑みをバルドに向けた。その様子に暫し、彼の時間は止まったようだった。
――これは耐性のない者には少々きつい。
(普段の……、自堕落な彼女を見せてやりたい。)
今日の僕たちは、いつもと一味違う。財布の中身が潤っているのだ。
先日討伐したダイナクロコは思いのほか高値で売れた。ドロップした尻尾は防具用の革に、肉は食材として人気だったらしい。
臨時収入に気を良くした僕たちは、情報収集も兼ねてマルシェへ買い出しに来ているというわけだ。
だが、大規模遠征以降、この街も大きく様変わりしてしまった。
威勢の良い掛け声も……
無駄に煩い笑い声も……
希望に輝いていた人々の顔も……
今はひっそりと影を潜めていた。
あれだけの戦力で臨んだ大規模遠征。
誰もが、必ずや希望を持ち帰ってくれると信じていた。
だが、蓋を開けてみれば大失敗。
それも、主導者の逃走というおまけ付きだ。
――ケチをつけ始めたら、キリがない。
行き交うプレイヤーの目もどこか荒んで見えた。
「それにしても……あいつら、最近やけに幅を利かせるようになったな。」
バルドはチラリと視線を向けた。
その先には――
肩で風を切りながら進む一団。
物騒な目つきに、腰には揃いの意匠を施した剣。
「また、あいつらか……。」
僕は深く息を吐いた。
昨日といい、今日といい。ここまで関わりたくないオーラを放てるのも、一種の才能だろう。
「なんなの、あいつら?」
怪訝そうな顔で一団を眺めるアイリ。
やっぱり、アイリとは気が合うらしい。
「おまえら、《霧影の盟約》は知っているか?」
「……そう言えば、」
「昨日のおじさんもそんな名前を言っていました。」
隣で首を傾げる二人を見かねて、ナンナが口を開いた。
「ゴホン。で、その《霧影の何とか》がどうしたんだ?」
咳払いを一つ。
ナンナの呆れた視線が突き刺さりながらも、僕は続きを促した。
「犯罪専門の闇ギルド――お前たちも耳にしたことくらいあるだろ。」
バルドは声を潜め、視線だけをこちらへ向けた。
「略奪や強奪といった類の犯罪は大概あいつらが関わってると思って間違いない。」
「ここだけの話……、プレイヤーキルも平気でやってるらしいぜ。まぁ、これはあくまで噂だがな。」
バルドの声色はおどろおどろしく、その口ぶりはまるで怪談でも語るかのようだった。
「それと《黄昏の航路》に何の関係があるの?」
アイリは不思議そうにバルドを見つめた。
……バルドの頬が緩み切っている理由は、あえて説明しないでおこう。
「あいつら、その闇ギルドからこの街を守るって言い出してな。あぁやって勝手に見回りまで始めたのさ。」
「何だ。それにしては浮かない顔だな?」
「そりゃ、見れば分かるだろ。」
僕は視線を向けずともその意味を理解した。
昨日の酒場での横暴も、この自警団気取りの延長だったのか。
「なら、とっとと捕まえちゃったらいいのに!」
アイリは語気を強めた。
命の重さを一番よく知っている彼女だからこそとも言える。
「それがな……、」
バルドは辺りを見回し、小さく息をつく。
「素顔を知る者はいない。唯一の手掛かりは喪服のような黒づくめの装いってだけだがな。」
「黒づくめの装い……?」
その言葉を聞いた瞬間、三人の脳裏にあの黒装束がよぎる。
――ヤバい。
僕は弾かれたように駆け出した。
「急げ! リッカに預けたままだ!」
「えっ?」
慌ててアイリとナンナも僕の後を追う。
「もし本当に《霧影の盟約》の人間なら、何をしでかすか分からない!」
(頼む……、間に合ってくれ。)
石畳を蹴る足音がマルシェの喧騒を切り裂いていく。
荒い息を吐きながら、僕たちは人混みを縫って駆け抜けた。
やがて見慣れた看板が視界に飛び込んできた。
酒場『斧と杯』――
「リッカ!」
力任せに押し開けた扉が、店内に鈍い轟音を響かせた。
普段なら『やってしまった』と青ざめるところだ。だが、今はそれどころじゃない。
店内中の視線が一斉にこちらへ集まる。
だが、そんなものは気にも留めず、僕は店内を見回してリッカの姿を探した。
「いい度胸じゃないか。分かってんだろうな、おい。」
指をポキポキと鳴らしながら仁王立ちするその姿は、今まで見てきたどんな魔物よりも恐ろしい。
――リッカだ。
身体中の毛穴が総立ちになり、一気に血の気が引いていく。
「いや……悪い。急いでたもので、つい。」
「それより、あの男は?」
リッカは何も答えず、静かに厨房へ視線を向けた。
「姉御、次は何したら良い?」
厨房から聞き覚えのない声が返ってくる。
視線を向けると、エプロンの下から覗く黒い装束が目に入った。
――黒装束!?
あまりにも違和感なく馴染んでいたものだから、僕はしばらく目を丸くしたまま立ち尽くしてしまった。
「何してるんですか?」
「あぁっ!? 何って、皿洗い終わったんだけど。」
一瞬、静寂が落ちる。
「えっぇぇぇぇぇ!?」
店内に三人の絶叫が鳴り響いた。
◇
客足もひと段落した店内。 それでも厨房からは、水仕事をする音だけが絶え間なく聞こえてくる。
「リッカさん……、驚かないで聞いて下さい。」
奥のテーブルでは神妙な面持ちのナンナとダイナクロコの肉で作った唐揚げを頬張るアイリ。
緊張感があるのかないのか……。
それでも、その表情だけは真剣だった。
「この人……、あの犯罪者ギルド《霧影の盟約》の方かもしれないんです。」
ナンナは小さく息を吸い、話を続けた。
「リッカさん……、何か変わったことはありませんでしたか? 何でもいいんです。」
「うぅん……? あっ!」
リッカは胸の前でポンと手を叩く。
「そう言えば、皿が綺麗になったな。ユマークよりよっぽど手際がいい。」
「それは夜中に叩き起こして、手伝わせるからでしょ!?」
思わず椅子を蹴るように立ち上がり、僕は全力で抗議した。
アイリとナンナは呆気に取られたように、僕たちを見比べている。
(いや、昼間ならもっと出来るし……。)
「ゴホン。」
リッカが一つ咳払いをしただけで、店内を包んでいた空気がぴんと張り詰める。
「そのことなら、エイナルから少しは聞いている。」
「エイナル!?」
三人の声が重なる。
それに呼応するように、厨房の奥から流れる水の音が途切れた。
《霧影の盟約》
情報が集まる酒場を切り盛りするリッカが、その名を知らないはずがない。
そんな彼女が奴を受け入れたというのだ。
何か理由があるはずだ。
「何をしたんですか、リッカさん?」
ナンナの真剣な目がリッカを捉える。
「あいつは自ら名乗った。《霧影の盟約》であることも……。今はそれだけで十分だ。」
「誰にだって人に言えないことの一つや二つあるだろう。」
アイリはそっと仮面に手をやった。
「それに仕事を覚えるのも早い。明日からは仕込みも任せようと思う。」
リッカはいつものように屈託なく笑った。
その笑顔を前にしてしまえば、それ以上問い詰める気には、誰もなれなかった。




