第三十四話 葦原の気配
東門を抜けると、その景色は一変した。
西の第三街道が乾いた平原を真っ直ぐ貫くのに対し、東の第二街道は低地が広がり、地面は常に湿り気を帯びている。
街道自体は踏み固められているものの、ところどころ濁った水が溜まり、歩くたびに泥が靴底へまとわりつく。
「うわぁ。」
ナンナはぬかるんだ道に苦戦している。
元々、近接戦闘が得意でない彼女は、こうした足場の悪い場所が苦手なようで、一歩踏み出すたびに体勢を崩している。
不意にナンナは足を泥に取られ、大きくよろめいた。
「大丈夫か?」
僕は反射的に彼女の腰へ手を添えた。
「ひゃぁ!?」
異性との距離感に慣れていないようで、僕の気遣いは逆に彼女を驚かせることになってしまった。
「あっ、悪い。」
「だ、だいじょうぶです。それより……、」
二人の視線は前を歩くアイリに向けられた。
彼女もまた、この道には手を焼いているようだった。
それでも――
何一つ愚痴を零さず、泥に足を取られてなお、その歩みは決して止まらなかった。
「アイリさんだって、頑張ってるんですから。」
ナンナは小さく微笑んだ。
頑張っている……。いや、違う。
首筋を伝う汗。
小さな肩は荒い呼吸に合わせて大きく上下している。
大剣を振るう姿から勘違いされがちだが、アイリは決して力のある方じゃない。
そう見えるのは、誰よりも身体の使い方が上手いからだ。
大剣の重さを利用し、まるで踊るように重心を移している。
あの華奢な身体で大剣を振るえるのは、それだけ身体を使いこなしているからだ。
――それは、あの舞踏会で嫌というほど思い知らされた。
けれど今は、その理屈すら通用していない。
気持ちだけで前へ進んでいる。
あんな無茶を続ければ、いずれ身体が悲鳴を上げる。
「!?」
突然、アイリは立ち止まり、街道脇に目を向けた。
そこは背丈ほどの葦や湿草が群生する葦原。
奥には浅い水たまりや細い水路が入り組んでいる。
見通しは比較的良い。
だが、ひとたび葦原へ目を向ければ、その奥までは見通せない。
――そう思えるのは、どうやら街道の上だけのようだ。
「ナンナ、備えておいてくれ。」
アイリの目は獲物を捉えた獣のように鋭い。
これは明らかに《勘スキル》が反応している。
ただ、僕の《危険探知》は沈黙を貫いたままだ。少なくとも、差し迫った危険があるわけではなさそうだ。
「アイリ――」
「うん、分かってる。」
アイリは頷くとナンナを庇うように立ち、大剣を構えた。
アイリの《勘》が方角を示す。
僕の《危険探知》が距離を測る。
そして、ナンナの《遠視》が敵を捉える。
「アイリさん! 今です。」
ナンナの言葉を合図に大剣が葦原を断つ。
間髪入れず、
「ユマークさん、後ろ。水辺です。」
短槍は鋭い風切り音を響かせ、水面を穿つ。
前後で、二つの断末魔が重なった。
「あれ?」
アイリの疑問が漏れる。
「これって……《漁り》じゃないよね。」
葦原には、二匹のダイアクロコが息絶えていた。
どう考えても、こいつらに装備を奪う知恵はない。
「……外れ?」
ナンナの小さな呟きが、湿地の静けさに溶けていく。
これはナンナの作戦だった。
この広大な湿地帯で銀のロザリオを探すのは非現実的だ。泥に埋もれてしまえば、それこそ一生見つからないかもしれない。
だったら前みたいに――
《漁り》なら、きっとロザリオを拾うはず。
黒麦酒の短剣がそうだったように。
だが、そう上手くはいかなかったようだ。
倒れているのはダイアクロコ。
ゴブリンよりもはるかに凶暴で、この辺りを縄張りにしている魔物だ。
そんな場所へ、《漁り》が近づくとは思えない。
ナンナは残念そうに俯いた。
僕はそっと彼女の肩に手を置く。
「さてと……。」
僕は葦原を見渡しながら、わざとらしく肩を竦めた。
「いやぁ、びっくりしたな。あんなのがいるんじゃあ、こんな依頼、割に合わないぜ。」
昔見た三文芝居の演者のように、わざと声を張り上げる。
「あっ! ダイアクロコだ。」
僕は振り返り、葦原の一角へ視線を向けた。
「ひぃぃっ!」
その声に反応したのか、情けない悲鳴とともに、葦をかき分けて一つの人影が飛び出した。
黒い装束――見覚えのある男だった。
「やっぱり、あんたか。」
ずぶ濡れのまま街道へ這い上がってきた黒装束の男に、先日までの威勢はもうどこにもない。
「どういうこと……?」
アイリが不思議そうに首を傾げる。
「ナンナの作戦は当たってた。」
僕は黒装束から視線を外さずに続けた。
「ただ、一つだけ違ったんだ。」
「《漁り》は何も、ゴブリンだけの専売特許じゃないってことだ。」
黒装束の男は青ざめた顔で僕たちを見上げる。
「人間にもいるんだよ。死者から装備を奪って生きる、《漁り》が。」
「じゃあ、こいつが銀のロザリオを……。」
「いや、それはない。」
僕は黒装束に目を向けた。
「このクエスト。依頼したのはこいつだからだ。」
「えっ!?」
驚いたアイリの声が湿原に響く。
「僕たちをここへ誘い込み、ダイアクロコに始末させる。そして、生き残った装備だけを回収するつもりだったんだ。」
黒装束は悔しそうに歯を食いしばっていた。
「自分では手を汚さず、死者だけを漁る。」
「ゴブリンより、よほどたちが悪い。」
冷たく言い放った僕の言葉には遠慮はない。
容赦なく責め立てられた黒装束の男は観念したようで、項垂れている。
「でも、なんで分かったんですか?これが嘘だって。」
ナンナは推理小説の探偵役を見るように目を輝かせていた。
「そりゃあ、だってあいつ……、」
「モテるわけないじゃん。」
「…………え?」
アイリもナンナも揃って固まった。
僕は肩を竦める。
「あいつがそんな殊勝な依頼をするような奴には見えるか?」
僕は深く息を吐いた。
「第一、『恋人の形見が銀のロザリオ』なんて、発想が安っぽい。」
「ひどっ!」
黒装束の男が思わず声を上げる。
「そこ否定するところか?」
僕は呆れたようにため息をついた。
「さっ、用事も済んだし、とっとと帰ろうか。」
僕は東門へ目を向けた。
「あぁあ……今日も結局、無駄骨ってことね。」
アイリは肩を落とし、大きく息を吐く。
「いや、そうでもないさ。」
僕は手にしたドロップ品を得意げに掲げる。
「ダイアクロコの尻尾だ。鶏肉みたいな食感で、結構うまいらしいぜ。」
「……そこ?」
アイリは呆れたように肩を竦め、ナンナは小さく吹き出した。
取りあえず、この男の処遇は後で考えることにして、僕たちは街への帰路についた。
銀のロザリオは見つからなかった。
それでも、無駄な一日ではなかった。




