第三十二話 前へ進むために
香ばしい焦がしバターや焼き上げた肉の脂が弾ける香りが漂う。
普通なら食欲を誘うはずなのに、鼻につく鉄臭い匂いが、それらを無情にもかき消していた。
蚤の市。
引退したプレイヤーたちが店を構える、この街でも穏やかな場所の一つだ。
それでも、街を覆う空気は重い。
大規模遠征の失敗。
広場で交わされる不安げな噂。
そして、シオン襲撃事件。
何かが確実に変わり始めている。
この閉塞した状況から抜け出すために。
いや、ただ前へ進むために。
僕たちには、どうしても会わなければならない人物がいる。
それなのに……。
「ねぇ、ねぇ。」
アイリの指が僕の袖口を執拗に引っ張っている。彼女に視線を向けてみたが、すぐに気持ちがここにないことが分かった。
「あれ――イチゴだよね。」
「えっ、うそ。マスカットまである!」
あの黒装束の男を前にした時でさえ見せなかった真剣な眼差し。
アイリは、バルド特製フルーツサンドから釘付けになっていた。
「ゴクリ。」
その隣では、ナンナもまた喉を鳴らしている。
どうやら、『どうしても』と思っていたのは僕だけらしい。
僕は財布に視線を落とし、わざとらしく溜息を零した。
アイリは宵越しの金は持たないと言わんばかりに遠征隊の報酬を使い切り、残されたのはホップラビット討伐で得た僅かな収入のみ。
果たして、この綱渡りのような暮らしはいつまで続くのだろうか。
――
「……どうした?」
愛想のない声色に、見るからに怪しい風貌。とても商売人には見えない。
トレードマークのショートパイプからは輪っかの煙がぷかぷかと浮かんでいる――ターバン男だ。
「相変わらずだな。」
返事はない。
ターバン男はパイプをくわえたまま、僕たちを値踏みするように静かに見つめていた。
「遠征隊は失敗したよ。」
「そうか……。」
「レグナスも姿を眩ませた。」
「……そうか。」
男は不機嫌そうに、こちらの話に短く相槌を打つ。
「こんにちは、おじさん。」
そんな重苦しい空気にナンナが割って入ってきた。
すると途端に男の表情が和らいだ。
「今日は黄色いターバンなんですね。すごく似合ってます。」
男は満更でもなさそうに薄っすら笑みを浮かべている。
ナンナはこの男の心を掴むのがやたらと上手い。
この調子なら、そのうち『おじさんキラー』なんて通り名が付いても不思議じゃない。
「おい、ユマーク。」
「実のところ……俺もレグナスのことは、よく知らん。」
「あいつに初めて会ったのは、この世界に囚われて間もない頃だ。ちょうど、この場所だった。」
ターバン男は俯いたまま、鋭い視線だけを僕へ向ける。
「あいつは怯えて項垂れる俺たちの前で、勝利の剣を高く掲げてこう叫んだ。」
「――『立ち上がれ!』とな。」
掠れた声が、静かな蚤の市に溶けていく。
「その一言で、群衆は湧いた。」
「帰れるかもしれない。」
「そんな希望を、みんなが信じたんだ。」
パイプの煙が、ゆっくりと空へ昇る。
ターバン男は煙を吐き出し、しばらく口を開かなかった。
「……だが、俺は見た。」
「あいつは俺たちを見ちゃいなかった。」
「群衆が歓喜に沸く中、勝利の剣だけを見て笑ってた。」
「あの笑い方だけは、今でも忘れられねぇ。」
「あの日から、あいつは何かに取り憑かれたようだった。」
パイプの先が赤く灯る。
ターバン男は、それ以上何も語らなかった。
僕たちは言い表せないモヤモヤを抱えたまま、蚤の市を後にした。
答えはまだ見つからない。
それでも、僕の気持ちは変わらなかった。
レグナスを責めたいわけじゃない。
ただ、知りたかった。
あの日、彼が何を見て、何を思って姿を消したのかを。
◇
陽に焼かれた石畳がじりじりと熱を返し、立ち上る熱気が足元を揺らしていた。
そのためか、噴水の周りには涼を求めるプレイヤーたちが集まり、いつになく賑わっている。
少し前までなら、人目を気にして近寄ることすら憚られた場所だ。それでも今は、僕たち三人も人混みに自然と溶け込めている。
この調子なら、七十五日も待たずに大手を振って歩けそうだ。
「さぁ、これからどうする?」
噴水の縁に腰掛けたまま、僕は水面へ視線を落とした。
「えっ。もう、そろそろいい時間だし、今日は宿に……。」
アイリは不思議そうに僕を見つめる。
「今じゃない。今後のことだ。」
その言葉にアイリは視線を落とし、黙ってしまった。
「……ユマークさん。もう少しだけ時間が欲しい、です。」
ナンナは静かに呟いた。
「せめて、もう少しだけ……。あの日の傷が癒えるまでは。」
ナンナの言いたいことは分かる。
今回の遠征では、多くのプレイヤーが命を落とした。
しかも、そのほとんどが実力ある古参たちだ。この街に残ったのは、僕たちのような経験の浅いプレイヤーばかり。
僕は俯いたままのアイリへ視線を向けた。
「アイリはどうしたい?」
「…………。」
答えは返ってこない。
いや、答えられなかったのかもしれない。
ただ、小さな肩がかすかに震えていた。
「僕にも……正解は分からない。」
そう言って、一度視線を落とす。
「でも、一つだけ分かることがある。」
「あの日の出来事は、絶対に忘れちゃいけない。」
「それだけ多くの人が傷ついて、命を落としたんだから。」
「……帰りたい。」
喧騒に溶けてしまいそうな、小さな声だった。
「うん。」
僕は静かに頷く。
アイリなら、そう答えると思っていた。
けれど、その言葉を口にすることを、彼女はどこか恐れているようにも見えた。
――『彼女にも同じ匂いがする。』
不意に、レグナスの言葉が脳裏をよぎる。
「僕たちは確かに多くを失った。」
「だからこそ、あの犠牲を無駄にはしたくない。」
「どういうこと?」
悲しげな表情のまま、アイリは僕を見つめている。
僕は立ち上がり、噴水へ視線を向けた。
「あの遠征で分かったことがある。」
「ゴブリンは、多くのプレイヤーが集まる場所に引き寄せられているのかもしれない。」
「そして、NPCには反応しない。」
「あっ……!」
ナンナが小さく声を上げた。
「ゴブリンの森には魔物がほとんどいませんでした。それに、ユマークさんが乗っていた馬にも反応していませんでした。」
僕は小さく頷く。
「あの時、ゴブリンの森から魔物が消えていたのも、遠征隊へ集まっていたからだと考えれば辻褄が合う。」
「そんな……、そんなことって。」
アイリの呟きが零れる。
「まだ確証はない。」
「でも、試してみる価値はある。」
アイリはしばらく僕の顔を見つめていた。
「ユマくんって……。」
「本当にオタクくんなんだね。」
「おい、どういう意味だ、それ。」
「別にぃ。」
戯けた彼女の笑顔は、初めて出会った頃と何も変わらない。
失ったものは戻らない。
それでも、僕たちはまた一歩を踏み出そうとしていた。




