第三十一話 スズランの咲く場所
「ユマくん!」
こちらに向けるアイリの瞳には、一点の曇りもない。
「あぁ、無茶するなよ。」
「うん! 分かってる。」
アイリは言い終えるより早く地面を蹴った。
まるで、僕が何を言おうとしているのか、最初から分かっていたかのように。
風を切り裂くように駆けていく。
あとに残ったのは、彼女の温もりを思わせる残り香だけだった。
「ナンナ、僕たちも後を追うぞ。」
ナンナに指で合図を送ると、彼女の残した踏圧痕を頼りに走り出した。
打ちつける金属音。
それが、何度となく周囲に響き、徐々にその音が近くなっていく。
「いたぁ!」
ナンナは何かを捉えた。
そして、足を止めるや否や弓を引き絞る。
ヒュンッ――
放たれた矢は僕の耳元を鋭い風切音とともに駆け抜け、一直線に飛んでいく。
遥か後方から放たれたとは思えない軌道。
矢は寸分違わずアイリの耳元を掠め、その行く手の草原へ突き立った。
「きゃあ!」
それと同時にアイリの悲鳴がこだまする。
何も知らされていなかった彼女は、少々肝を冷やしたようだ。
そのおかげで、僕もようやく標的を視界に捉えることができた。
アイリの隣には白いブレストプレートを纏い、青い長髪を靡かせた妙齢の女騎士。
その正面には、黒装束に身を包んだ男が対峙している。
――黒頭巾のせいで顔までは見えない。
だが、漂う気配だけで只者ではないと分かる。
「アイリ!」
ナンナの二射目に備え、僕は身を屈めたままで駆け抜ける。
そして、滑り込むように近づくと、短槍を横薙ぎに振り抜き、その足元を刈り払った。
虚を突かれた黒装束の男は、咄嗟に真上へ跳ぶしかなかった。
アイリはその隙を逃さない。
すかさず振り上げた大剣がその男を捉えた。
「よせ。」
僕の言葉にアイリの大剣は既のところで宙を斬る。次いでアイリの身体は後方に大きく蹌踉めいた。
事なきを得た男の足が地についた、その瞬間――
男の喉元には短槍の柄頭。
男はゴクリと唾を飲み込んで、そのまま諦めるように膝をついた。
「ちょっと、なんで止めるのよ。」
不満げに頬を膨らませるアイリ。
その様子に僕は深く息を吐いた。
「落ち着け。もう終わってる。」
それでも、何か言いたげなアイリはじっとこちらを睨んでいる。
唇を尖らせているのは、納得していない証拠だ。
でも――
僕は柄頭を動かし、黒頭巾を剥いだ。
「っ……!」
「あっ……、」
アイリは目を見開いた。
「ここは……城壁の内側。つまり圏内だ。魔物は湧かない。」
僕の言葉にナンナが得意げに胸を張った。
僕も最初は気づけなかったが、彼女はあの距離からそれを見抜いていたらしい。
《遠視スキル》は底が見えない。
アイリの肩を軽く叩くと、僕は女騎士へと視線を向けた。
「ほぉ……。」
僕は思わず、溜息が漏れた。
研ぎ澄まされた鎧装とは対照的に……、印象的な柔和な瞳と解けた口元。
筋の通った立ち姿からは、アイリとはまた違った魅力を感じる。
思わず見入ってしまう。
なのに何故かこれ以上見てはいけない気がした。
「いてててっ!」
不意に、アイリは僕の耳をつまみ上げた。
しかも、ご丁寧に捻りを加えながら……。
そのまま、その女騎士へと視線を向けた。
「怪我は……ない?」
アイリは穏やかな口調でその女騎士に気遣った。
だが、その姿を僕には見せるつもりはないらしい。僕の耳はそろそろ限界を迎えそうだと言うのに。
「ははは……。仲が良いんだな。」
女騎士はわずかに息を吐いた。
そして、視線だけをこちらへ向ける。
「それと……、」
その目が、僕の左手へと移る。
「その手を離してもらえると助かるんだけど。」
気付けば、無意識に僕の指は腰の短剣に触れていた。
「あぁ、ゴメン。そんなつもりじゃ……。」
僕は咄嗟に左手を離した、その瞬間。
黒装束の男は身を翻し、柄頭から距離を取った。
「ちょっと!待ちなさい。」
熱り立ったアイリの声。
それと同時に身体の前で大剣を構える。
――おかげでようやく僕の耳は解放された。
周囲から音が消える。
僕は握り直した短槍で再びその間合いを測った。
四対一
数の上では黒装束の男に勝ち目はない。
それでも、僕は決定打を打てずにいた。
まだ、何かを見落としている。
だが、それが何かは掴めない。
その間にも、アイリはじわりと距離を詰めている。
――彼女には一切の迷いが見られなかった。
アイリが次の一歩を踏み出した瞬間。
男は身を屈め、地面に手を置くとそのまま振り上げた。
四人の前には扇状に砂が舞う。
僕らは手で顔を覆ったが、視界は白く染まった。
手を下ろした時には、すでに黒装束の男は跡形もなく姿を消していた。
「しまった!」
アイリが慌てて辺りを見渡すが、それらしい気配はどこにもない。
続いてナンナが《遠視スキル》を使ったが、すでに男は矢も届かない場所まで離れていた。
「もう。」
アイリは呆れたように息を吐き、冷ややかな視線を僕へ向けた。
まるで、僕が取り逃がしたと言わんばかりだ。
「そっちこそ、僕が止めなきゃ危なかっただろ。」
言い返しかけた、その時だった。
そう言えば、……ここは圏内。
プレイヤー同士の争いは固く禁じられた、謂わば聖域。
それを破れば、待っているのは……、その聖域からの追放。
なのに、あの男は女騎士に刃を向けていた。
ここに来るまでの道中で耳にした噂が脳裏をよぎる。
略奪、強奪、そしてプレイヤーキル。
だが、あの男にはレッドタグは見られなかった。
僕は思わず天を仰いだ。
先入観――
それが邪魔をしている。 そんな気がしてならなかった。
◇
「はい、お待ちどうさま。」
リッカは両手いっぱいの大皿を抱え、テーブルへと並べていく。
ベリーソースのミートボール、うさぎ肉のグリルのベリーソース添え、霜焼き鶏の塩鉄グリル、鮭とじゃがいものミルクスープ――
ナンナの苦手なラビットミートの黒麦酒煮込みこそ並ばなかったものの、それでも十分すぎるご馳走だった。
その羽振りの良い注文にはリッカの表情もどこか緩んで見える。
「わぁっ!」
アイリとナンナから、思わず歓声と拍手が上がった。
いつもなら、財布の中身が気になって喜ぶに喜べない僕も今日だけは違う。
――今日はなんと奢りだからだ。
「本当に良いんですか、シオンさん。」
「あぁ、もちろんだよ。」
ナンナからシオンと呼ばれたその女騎士は柔らかな笑みを見せた。
彼女の名はシオン。
騎士らしく隙のない立ち姿とは対照的に、笑うとどこか親しみやすい。その気さくさに、さっきまで胸につかえていた何かも、少しずつ溶けていくようだった。
「はぁ。」
それに対して僕の相方たちと言えば、会話もそこそこに、高そうな料理へ次々と手を伸ばしている。
あっという間に、テーブルには空いた皿が積み上げられていく。
その食べっぷりを眺めているだけで、妙に満たされた気分になる。
「ふぅ。いやぁ、それにしても食べましたねぇ。」
ナンナは両手でお腹を叩きながら、満足そうな笑みを浮かべた。
だが、次の瞬間。
その視線はシオンに向けられた。
「……時に、シオンさん。」
ナンナの視線はシオンを射抜く。 その笑顔とは裏腹に、探るような鋭さが宿っていた。
「あなたはなぜ、あんなところにいたんですか?」
「それもたった一人で。」
ナンナは相変わらず笑顔のままなのに、その目だけは笑っていなかった。
「……スズラン。」
シオンの言葉がそっと漏れた。
「ふぇ?」
予想外な言葉に始めに反応したのは口をモグモグさせたアイリだった。
僕はアイリの前にコップをそっと差し出し、今は黙っているよう目配せした。
「あの人が好きだったの。『ここに咲くスズランは最高だ』って、よく笑ってた。」
そう言ったシオンはそのまま視線を落とした。
「……その人、今は?」
ナンナの声が震える。
「……戻ってこなかった。」
「だから、あそこに行けば会えるかな……なんてね。」
顔を上げたシオンは少しだけ笑っていた。
だけど、その目には涙が浮かんでいた。
「どうしたんですか? アイリさん。」
ナンナの驚いた声に僕の視線は嫌でもアイリに向けざるを得なかった。
そこには、さっきまでリスみたいに頬いっぱい料理を詰め込んでいたアイリが、滝のような涙を流していた。
「うぅ……っ。」
嗚咽を堪える声だけが静かな酒場に響く。
もう誰も、その続きを尋ねようとはしなかった。




