第三十話 警鐘
翌朝――
僕は鳥のさえずりと、淡い朝の光で目を覚ました。窓から吹き込む風は、七月とは思えないほど心地良い。
最近はいろいろなことがあった。
だから、こんな穏やかな朝を迎えられるのは本当に久しぶりだった。
僕は何気なく、並んだ二つの寝台へ目を向けた。
静かな寝息を立てるアイリ。
その隣では、布団を蹴飛ばし、寝台の端ぎりぎりで見事な寝相を披露するナンナ。
思わず、小さく笑みがこぼれた。
そういえば、小さい頃は妹の寝相で今日の天気を占ったものだ。
寝台の真ん中で寝ていれば雨。落ちそうなら曇り。落ちていたら――快晴。
さて、ナンナならどんな天気になるんだろう。
ドスン!
ナンナは身を捩り、大技でも決めるかのようにごろりと一回転した。
「ふにゃ」と情けない声を残し、そのまま寝台から転げ落ちてしまった。
その様子に僕は思わず吹き出した。
――なるほど、今日は快晴らしい。
「いたたた……。」
しかめっ面のナンナは頭を擦りながら身体を起こした。
しばらくの間、状況が掴めない様子でぼんやりとしていたが、やがてこちらの存在に気付いたらしい。
「お、おはようございます……。ユマークさん。」
「あぁ、おはよう。今日も絶好調だね。」
「それほどでもないですよ……。」
小さなやり取りが、朝の空気に溶けていく。
僕はふと、並んだ二つの寝台へ視線を戻した。
静かな寝息を立てるアイリは相変わらず無防備に眠っている。
こういう時間が、昔から好きだったのかもしれない。気づけば、そんなことを考えていた。
「なんですか、ユマークさん。アイリさんの顔ばっか、じっと見て――」
不満げな声。
ふと見ると、ナンナは小さく拳を握っていた。威嚇、というには少し頼りない仕草だった。
そういえば、前も同じようなことがあったな。思い出したら、一層可笑しくなった。
「そういえば、昨日は慌てて走ってったけど、上手くいったのか。」
「う、上手く……って、なんのことですか……?」
ナンナは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
この子がここまであからさまに動揺するのも珍しい。
思わず、口元が緩んだ。
「な、な、なんですか!? その顔は! 本当になにもありませんから!」
「なにもないって……、何の話だ?」
いよいよナンナの顔は、沸騰寸前のやかんみたいに今にも湯気が立ちそうだった。
「ユマークさん……、嫌いです。」
捨て台詞を投げつけて、ナンナは一階に降りていってしまった。
「ちょっと、やりすぎたかなぁ?」
「そうね、後でちゃんと謝りなさいよ。」
僕の背後から冷たい視線……。
振り返ると、いつの間にか目を覚ましたアイリが呆れたようにこちらを見ていた。
「起きてたんだぁ。おはよう、アイリ。」
「うん……、おはよう。」
不意に、視線が重なった。
アイリの目元がほんのり赤く、瞼はまだ少し腫れぼったい。
その顔を見た途端、昨日の記憶が蘇る。
あの時は夢中だった。けれど、今思い返すと妙に小っ恥ずかしい。
それはアイリも同じらしい。 互いの視線は行き場をなくし、くるくると部屋の中を彷徨った。
「「ぷっ。」」
あまりにも気まずい空気が妙におかしくて、二人は思わず吹き出してしまった。
ガチャ……。
僅かな物音と共に扉が指一本分だけ開いた。
そこから、片目だけを覗かせたナンナがじとりとこちらの様子を窺っていた。
「怪しい……。」
半分だけ見えた口元が、にやりと吊り上がっている。
「二人こそ……、なにかあったんですか?」
◇
三人は少し遅めの朝食を摂ってから、揃って街に繰り出すことにした。
最初はナンナも反対していた。
それでも「三人なら大丈夫」と笑うアイリを見て、最後には渋々頷いた。
酒場を出るとジリジリと日差しが照りつける。踏みしめる石畳は熱を帯び始め、額からはじわりと汗が滲む。
「おい! あれって確か……。」
「よくもまぁ、堂々と……。」
鋭く突き刺さる好奇の視線。
一度貼られたレッテルは、そう簡単には剥がれない。
覚悟はしていた。
それでも、その一つひとつが今の僕たちには重かった。
「ちょっと、みなさん……。」
珍しく、ナンナの顔が強張っている。
一歩踏み出したところで、僕はその腕を掴んだ。
隣ではアイリが首を横に振っている。
「人の噂も七十五日……、だったっけ。」
苦笑いを浮かべながら呟いた。
七十五日もあれば、きっと噂は風化する。
……もっとも、その七十五日でさえ、今の僕たちには、長すぎる。
重たい空気を振り払うように、ナンナがぱんっと手を叩いた。
「よし!」
にこっと無理に笑ってから、
「さぁ、アイリさん。今日はどこに行きましょうか?」
アイリはそっと目を閉じ、一つ深呼吸する。
再び目を開いた時には、いつもの柔らかな笑みが戻っていた。
「そうねぇ。ちょっと落ち着けるところが良いかな。」
ナンナは眉をひそめ、腕を組んで考え出した。なかなか思い浮かばないのか、三人の間に沈黙が流れる。
「それなら、東門辺りはどうかな?」
間を割って、僕がボソリと呟いた。
「……東門?」
「あぁ!」
ナンナが手をポンと叩いた。
「確か……。辺り一面花が咲いていて、その間を通るように小川が流れてるんですよね。」
ナンナは得意げに続ける。
「ちょっとした公園みたいだって……。」
「詳しいのね。誰から聞いたの?」
「えっ! あぁ、それは……。」
ナンナは頬をほんのり赤く染め、口ごもった。
「……ひ、秘密です。」
頬を染めて視線を逸らすナンナを見て、思わず口元が緩んだ。
「じゃあ、行こうか。」
石畳を進み、細かな水飛沫が舞う噴水広場へ近づくにつれ、人通りは一気に増えていく。
『木の葉を隠すなら森の中』とはよく言ったものだ。これだけ人がいれば、僕たちもただの通行人の一人に紛れられる。
ただ、それでも噂まで隠せるわけじゃない。
「なぁ、聞いたか。あの噂。」
「あぁ、それな。またプレイヤーキルだろ?」
「隣の奴もやられたって話だ。あれ以来、街の外は物騒になっちまったな。」
男たちが声を潜めて囁き合っている。
略奪、強奪、プレイヤーキル――。
こうした話はどこの世界でも後を絶たない。だが、大規模遠征失敗の報が広まってから、そんな話を耳にする機会は、目に見えて増えていた。
気づけば、握った拳に力がこもっていた。
広場を抜けると、街並みは少しずつ途切れ始めた。 切妻屋根はいつしか背後へと消え、代わりに視界いっぱいの緑が広がっていく。
東門へと続く石畳の左右には、色とりどりの花々が風に揺れ、その間を縫うように小川が静かに流れていた。
「うわぁ……。」
アイリの表情がぱっと明るくなる。
その笑顔に誘われるように、小走りで花畑へと駆け寄っていった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、アイリさん!」
二人で無邪気に走り回る姿を眺めていると、不思議と肩の力が抜けていく。
「!?」
花畑を駆けていたアイリが、不意に足を止めた。
その笑顔が、すっと消える。
「どうした、アイリ。」
そう口にしたものの、本当は分かっている。
あの獣のような眼光。 肌を刺すような威圧感。
忘れるはずがない。
西門近くの森で、ゴブリンと対峙した時と同じ空気だ。
アイリの《勘》が警鐘を鳴らしている。
敵などいるはずのない圏内で――




