第三話 夜と朝の境界線
「ここも駄目だった……。」
「そっか。」
夜明け前。
街はすっかり静まり返っていた。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、何もかもが落ち着きを取り戻している。――それなのに、僕たちだけはそうなれなかった。
――宿がない。
盲点だった。
延々と続く切妻屋根の街。その一軒一軒すべてに「所有権」が設定されていて、勝手に入ることができない。試してみたが、どの扉も例外なく閉ざされていた。
どうやら、その権利自体は売買できるらしい。だが、肝心の仲介業者はNPCのくせに夢の中なのだという。
つまり今、この街で雨風を凌げるかどうかは、宿を確保できるかにかかっていた。
だが――それが何より難しい。
この仕様に気づいたプレイヤーたちは、広場から一斉に宿へ雪崩れ込んだ。
街はまるで観光シーズンのような混乱に包まれ、飛び交う怒号と焦燥。挙げ句の果てには、宿代を吊り上げて転売を始める者まで現れる始末だ。
普段はテレビの向こう側で眺めていたような光景を、まさか自分が体感するなんて思ってもいなかった。
そして何より不気味だったのは、NPCたちの反応が妙に生々しいことだ。
――怯えた顔で値段を釣り上げる者
――困り果てたように謝り続ける者
まるで、本当にこの街で暮らしている人間のようだった。
その喧騒も、やがて街中に「満室」の札が並び始めると、ようやく収束へと向かっていった。
諦めきれない何人かのプレイヤーは尚も扉を叩いていたが、返ってくるのは無機質な施錠音だけ。
石畳には座り込むプレイヤーの姿も見え始める頃には、誰も彼もさっきまでの勢いを失っていった。
「それにしても、みんな逞しいよな。」
「逞しいっていうか……まだ現実感がないんだと思う。」
アイリは閉ざされた宿屋の扉を見つめたまま、小さく肩を竦める。
「きっとみんな、修学旅行みたいな非現実感に酔ってるだけ。」
乾いた沈黙に包まれる――
「……だって普通、“ログアウトできません”って言われたら、まず寝床の心配なんてしないでしょ。」
たしかに、その通りだ。
――返す言葉もない。
真っ先に浮かんだのは、帰る方法じゃない。
これからどう過ごしていくか――そんな事だった。石畳に座り込むプレイヤーたちを笑えない、僕も奴らと何ら変わらない。
そして、心のどこかで、まだ願っている。
《これは夢なんじゃないか》――と。
だが、アイリは違った。
仮想世界に潜る人間は、多かれ少なかれ現実に居場所を失っていて、けれど彼女には最初からそれを感じなかった。
この世界にいながら、今もなお現実から目を逸らしておらず、ここを“新しいの居場所”として受け入れようとしない。
たぶん、彼女はそういう数少ない人間だ。
――だからこそ、危うく見える。
現実へ帰れないという事実を、誰よりまともに受け止めている。
こんな状況だ。無理もない。
――そう頭では分かっている。
それでも、アンドフリームニルの料理に舌鼓を打っていた頃とは、明らかに雰囲気が違った。
張り詰めた糸が、ギシギシと軋んでいるかのようで、 あと少しだけ力を加えれば、そのまま切れてしまいそう……。
「……仕方ないか。」
ユマークが指差した先。
それは、石畳の通りを抜けた先にある大きな円形の噴水だった。
そこにも行き場を失ったプレイヤーたちが、縁にもたれかかるようにして眠っている。さっきまで宿を奪い合っていた喧騒は消え、誰もが電池の切れた人形みたいに動かなくなっていた。
――そんな中、その一角だけがぽっかりと空いていた。ここはまだ、誰にも取られていない。
迷わず歩き出すユマーク。そして――
アイリも黙ったまま、その背中を追いかけた。
《――案外悪くない。》
中央で弾ける柔らかな水飛沫へつい目を奪われがちだが、滑らかな曲線を描く石造りの縁は思ったより座りやすい。周囲を囲む低い垣根も程よい目隠しになっていて、身を休めるには十分だ。
二人はようやく見つけたその居場所に腰を下ろし、疲れ切った身体を預け事にした。ひんやりとした白い石の感触が熱を持った身体に何とも心地いい。
――仕方なく選んだにしては、上出来だ……。
広場には噴水から流れ落ちる水音が静かに響き、口を開く気力もない僕たちはそれをただぼんやりと眺めていた。
夜明け前に加えて、薄っすら舞う水飛沫のせいで空気はひんやりとしていたが、不思議と悪くなかった。
「……ねぇ。」
意外にも最初に声を発したのはアイリだった。少し整理できたのだろうか、本調子とはいかないまでも幾分穏やかな顔に戻っていた。
「ん?」
「みんな、案外すぐ寝ちゃうんだね。」
「そりゃ、疲れたんだろ。」
「……うん。でも。」
アイリは眠るプレイヤーたちを眺めたまま、小さく目を細める。
「普通、もっと怖がると思ってた。」
きっと、これは彼女の本心だ。
おそらくこの数時間、ずっと一人で耐えてきたんだろう。
「……外さないのか?」
舞踏会の時からつけている、黒いスエード製のコロンビーナタイプの仮面。
華美になり過ぎない程度に小さな宝石が散りばめられたそれを、彼女は今も大事そうに身につけていた。
あの場では単なるドレスコードの一部だと思っていたから、僕は終わるなりすぐ外してしまったけれど、どうやらアイリにとっては違うらしい。
「まだいい。」
何気ないつもりだった。
けれど、その問いにアイリはほんの少し視線を逸らし、答える表情も心なしか硬い。
「…… ……。」
――しまった。
触れてほしくない話題だったのか。白み始めていた空気が、また少しだけ遠のいた気がした。
「……ありがとね。」
もう、話してくれないんじゃないかと覚悟していたが、不意に言われたその言葉に僕は思わず顔を上げた。
「舞踏会の時、君が手を取ってくれたから。」
全く、この子には何度も驚かされる。
あの時、困っていた僕を助けてくれたのは……。荒んだ自分を救ってくれたのは、紛れもなく君だ。
「……なんで。あの時、助けてくれたの?」
「……わかんない。」
アイリは少しだけ間を置いてから、小さく続けた。
「でも、あのまま踊ってるの、なんか嫌だったから。」
「……そっか。」
短い沈黙が落ちる。
静まり返った広場に、噴水の水音だけが静かに響いていた。
「そう言えばさ、最後に出たりんごのコンポート。あれ、美味かったよな。」
急な話題転換に、アイリはきょとんと目を瞬かせる。
けれど、この話題は嫌いじゃなかったらしい。
「え〜、あそこは絶対シナモンロールでしょ。リンゴンベリーソースとのバランスが絶妙だったんだから。」
「おいおい、何言ってんだよ。リンゴンベリーがかかってたのはコンポートの方だろ。」
「あっ、違う違う。正しくはバニラアイスに、ね。」
「え〜っ、そうだったかしら?」
わざとらしく首を傾げたあと、アイリは肩を竦めて笑う。
「まっ、美味しかったんだから、それで良いのよ。」
「それより、私のチョイス良かったでしょ。」
「最高!」
気付けば、人目も憚らず笑っていた。
《寝かせろ……》なんて声まで聞こえてきたけど、むしろそれが余計に笑いを誘った。
「あっ、見て!」
今度は、アイリが空へ向かって指を伸ばした。
地平線の遥か向こう――夜と朝の境界線みたいな場所が、ほんの僅かに赤く染まり始めていた。
「……あ。」
思わず、声が漏れた。
――次の瞬間
世界の端から、金色の光がゆっくりと滲み出し、暗闇を押し上げるみたいに朝日が姿を現した。
白い石畳は淡く輝き、噴水の水面はきらきらと光を跳ね返す。眠り込んでいたプレイヤーたちの影も、長く静かに伸びていった。
夜が終わる――
たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙にざわついた。
あまりにも綺麗だったからか。
それとも、この世界にもちゃんと朝が来るのだと思ってしまったからか。
どちらにしても――。
隣でアイリが笑っている。
少なくとも今だけは、そんなに悪い夜じゃないと思えた。




