第二十六話 僕たちの番だ
(アイリたちは無事に今日の目的地に辿り着いただろうか。もしかしたら、すでに探索を終えて帰還している最中かもしれないな。)
仄暗い森の中を僕たちは進んでいた。
第三街道の脇――通称、ゴブリンの森。
鬱蒼とした木々が陽光を遮り、昼間だというのに辺りは薄暗い。湿った空気が肌にまとわりつき、踏み出すたびに泥濘んだ獣道が靴底を鈍く吸い込んでいく。
音がない。
風が草木を揺らしても、その揺れは途中で途切れるように消えていく。鳥の鳴き声も虫の羽音もここにはなく、妙に静まり返っていた。
アイリのことだ。
相棒を振るいながら、平然と危険な地形を駆け回る姿が目に浮かぶ。
僕の心配など、『百年早いわ』と笑い飛ばされるに違いない。
それより――
「そう言えば、アルセリオン。君はなんであんなところに一人でいたんだ?」
彼ほどの実力があれば遠征隊に誘われたって不思議じゃない。
胸の奥に引っかかっていた疑問が、思わず言葉になって零れた。
「う〜ん、そうだなぁ。……案外、君と同じかもね。」
「えっ、何か無くしたんですか?終わったら一緒に探しますよ。」
「はは……。」
間髪入れず、ナンナが会話に割り込んだ。
その勢いに、アルセリオンは誰に向けるでもない、整いすぎた笑みを浮かべた。
「ところでユマーク。場所はこっちで合ってるのかい?」
話題を逸らすようにアルセリオンは周囲を見渡した。
「ああ……。たぶん合ってる。」
僕は嘘をついた――
いや、正確には、覚えていないだけだ。
あの時は必死で駆け抜けることしか頭になくて、周囲の景色を確かめる余裕なんてなかった。
覚えているのは――
背後で泥を踏み潰す音。
枝をへし折りながら迫ってくる気配。
そして、背中に触れた、かすかな温もり。
「そっか、分かった。」
アルセリオンは、それ以上踏み込むことなく頷いた。
その笑顔には、疑いの影すら差していない。
「……あの。」
不意にナンナが呼び止めた。
「アルセリオンさん、やっぱり変ですよ。」
ナンナは真っ直ぐアルセリオンを見上げた。
疑うわけでもなく、責めるわけでもない。
ただ、その理由を知りたがっているように見えた。
「そうか……、変か……。」
そう呟いたアルセリオンは、なぜだか少し嬉しそうだった。
「す、すいません。あれっ? 私なんで……。」
ナンナは慌てて顔を伏せてしまった。
それでも、伏せた顔の奥から覗く瞳は真っ直ぐアルセリオンを見つめている。
(なんで自分で言って、自分で慌ててるんだ……。)
「……どうして、助けてくれるんですか?」
アルセリオンの眉が僅かに上がる。
「どうして……か?」
「はい。」
先ほどまでの戸惑いが嘘のように、ナンナは真っ直ぐ頷いた。
「世の中の人がみんなそうだとは思いたくないですけど、少なくともユマークさんは……何の見返りもなしに動いたりはしません。」
(なんて失礼なことを言うんだ、この子は……。)
「ははっ。」
「本当に二人は仲が良いんだね。やっぱり、君たちと一緒に来て正解だった。」
「はい?」
「君たちみたいに、真っ直ぐ聞いてくれる人は案外少ないからね。」
「困っているなら手を差し伸べたい……。それが紛うことなき本心だ。」
アルセリオンは少しだけ空を見上げた。
「それだけ……ですか?」
ナンナが目を瞬かせた。
「うん。それだけだよ。」
あまりにも迷いのない答えだった。
「でも、何の得にもなりませんよね?」
「そうだね。」
アルセリオンは苦笑した。
「でも、見返りのためだと言い切れたなら、少しは楽だったのかもしれない。」
「えっ……?」
「誰かを助けるたびに、それが正しかったのか考えてしまうから。」
穏やかな笑顔のまま、声だけが少し遠くなる。
「差し伸べた手が、いつも正しいとは限らない。」
アルセリオンは、言葉を選ぶように一拍置いた。
「誰かを助けたつもりでも、別の誰かを傷つけてしまうことだってある。」
視線はどこにも焦点を結ばないまま、森の奥へと流れている。
「だから、時々考えてしまうんだ。本当にこれでよかったんだろうか……と。」
口元だけが、少しだけ困ったように緩む。
「もし見返りのためだったと言えたなら、全部自分の選択だったと割り切れたのかもしれない。」
指先が軽く、腰に携えた剣に触れる。
「そんなことを考えていたら、誰ともつるめなくてね。」
「気付けば、ソロの冒険者になっていたよ。」
「ごめんなさい……、変なこと言って。」
ナンナの瞳が僅かに潤んだ。
「私も一人だったから……。」
ナンナは言葉を詰まらせる。
「あの日、アイリさんたちに出会うまで。私も一人、深い闇の中にいるようで……。」
「すれ違う人たちや見下ろす人たちは私を気にかける余裕なんてなかった。」
「でもアイリさんだけは違った。そんな私に手を差し伸べてくれた。自分だって不安だったはずなのに。」
ナンナはそこで少しだけ視線を上げる。
「……だから、余計に思ってしまったんです。」
いたずらっぽく、ほんの少しだけ唇を尖らせた。
「ユマークさんは、それでも一歩引いたところから見てる人だなぁって。」
すぐに肩をすくめる。
「まぁ、その代わりに、結構お金は出してくれてますけどね?」
(あいつ〜。最近、ディスり方まで洗練してきやがったな。)
「…… ……。」
アルセリオンは何も言わなかった。
だが、黙ってナンナを見つめるその目は、先ほどより少しだけ柔らかく見えた。
(…… ……。)
だけど――
ナンナは気付いていない。
確かに、あの日。
噴水の前でうずくまっていた君に手を差し伸べたのはアイリだ。
でも――
その手を取ると決めたのは、君自身だ。
もし君がアイリの優しさに救われたというのなら、きっとアイリもまた、君に救われたんだ。
こんな世界でも……、
自分は自分のままでいていいのだと。
「!?」
突然、言葉にならない違和感が思考の隙間に入り込む。
これは僕だけじゃない。
視界の端に捉えるアルセリオンもその足を止めて周りを見渡している。
そのまま何ごともなかったように歩き出そうとするアルセリオンだったが、視線だけは森の奥を捉えている。
(こいつも……。)
背後よりナンナの声が飛んでくる。
「ユマーク……さん?」
「あぁ、悪い。」
だが、その違和感は少しずつ輪郭を帯びていく。
静かすぎる。
そうだ。
この森に入ってから――
まだ一匹も、ゴブリンと遭遇していない。
アルセリオンは小さく息を吐いて、剣の柄に手を置いた。
「静か……、すぎるね。」
誰に向けたわけでもないこの一言が森の奥に沈んでいく。
その時だった。
僕の視線が足元に落ちると、その答えがそこにあった。
――短槍。
見覚えのある形。
使い込まれた穂先と傷だらけの木柄。
間違いない。これは僕の相棒だ。
確かにあの時、僕はこいつを放った。
ゴブリンが見せた綻びに向かって、激しく回転しながら弧を描いたその姿は今も目に焼きついている。
それが、ここに落ちている。
踏み荒らされた形跡もない。
ナンナは小さく息を呑む。
「これって……、ユマークさんの?」
アルセリオンは一瞥すると、視線を森の奥に戻す。
ゴブリンは狡猾だ。これに気付けば必ず持ち去るはずだ。
黒麦酒の短剣のように……。
少なくとも、あの日見た奴らならそうしている。
なのに――ここにある。
その時だった。
カン――ッ。
遠くから、金属同士がぶつかる甲高い音が響いた。
続いて聞こえてきたのは、幾人もの怒号。
風に流されて途切れ途切れだが、それでも分かる。
戦闘だ。
「今の……。」
ナンナが不安そうに顔を上げる。
アルセリオンはすでに音のする方角へ視線を向けていた。
「遠征隊、……だろうね。」
短い言葉。
だが、その一言で十分だった。
戦っている。
あちらでは。
――なら、なぜ。
僕たちの周りには何もいない?
足元の短槍へ視線を落とす。
あの日。
僕たちはゴブリンに追われた。
逃げても逃げても現れた。
なのに今は違う。
一匹もいない。
森は不気味なほど静まり返っている。
まるで――。
奴ら全てが、別の場所へ集まっているみたいに。
その瞬間。
散らばっていた違和感が、一つに繋がった。
「……人の数か。」
思わず声が漏れる。
アルセリオンが横目でこちらを見た。
「人の数に反応している。」
それは確認ではなく、確信だった。
少人数の僕たちには寄ってこない。
だが――
千人規模の遠征隊なら。
この近くで最も大きな獲物なら。
「そうか……。」
血の気が引いていく。
「最初から全部――遠征隊に集まってたのか。」
アルセリオンが静かに頷いた。
その沈黙が、何より雄弁だった。
「助けに行かなきゃ!」
叫んだナンナの目は涙が浮かんでいた。
「君が行ってどうする?」
アルセリオンに先ほどまでの笑みはない。
「その小さな体で、その弓で。いったい何が出来る?」
「それでも……。アイリちゃんを助けなきゃ。今度は私が行かなきゃ。」
アルセリオンは今にも飛び出してしまいそうなナンナの腕をしっかりと掴んで離さない。
「俺の手も振り払えない奴が行ってどうする。死ぬだけだ。」
「分かってます……。何も出来ないことなんて。」
ナンナは俯いて肩を震わせていた。
「それでも……、アイリちゃんを一人になんて出来ない。」
僕は何も言えないでいた。
取り乱したナンナの姿を前にしても……、
それを必死で止めようとするアルセリオンを見ても……、
やけに冷静で俯瞰的に物事を考えている僕がいる。
きっと、ナンナが間違っていて、アルセリオンが正しい。
――あまりに無謀だ。
僕の膝は音がしそうなくらいに震えていた。
啜り泣くナンナの声も感情に震わせるアルセリオンの声も、どこか他人事のように聞こえる。
そんな時、ふとナンナの言葉が頭を過ぎる。
《アイリは手を差し伸べてくれた。自分だって不安だったはずなのに》
そうか……。
そういうことだったのか。
僕も――
彼女の手を取った。
ナンナも。
だから、アイリは今も変わらず人に手を差し伸べられる。
助けられていたのは、僕たちだけじゃない。
アイリもまた、僕たちに救われていたんだ。
だったら――
今度は僕たちの番だ。
「アルセリオン、一つ頼みがある。」
アルセリオンは僕の声に眉をひそめた。
「ナンナを街まで送ってやってくれ。」
「ユマークさん……、ダメ……。」
僕はナンナに歩み寄り、肩を抱いた。
「いいかナンナ。街に戻ってリッカさんを呼んできてくれ。」
僕はナンナの目をじっと見つめた。
「この状況を打開できるのはリッカさんしかいない。でもアルセリオンは彼女を知らない。だから、これを頼めるのは君しかいないんだ。」
「いいね、今の最適解はこれなんだ。だから、頼む。」
僕は震える手も気にしないで、ナンナに声を掛けた。
「それで……、きみはどうするんだ。」
アルセリオンは息を吐いて、僕に声を掛ける。
僕は足元に落ちていた短槍を拾い上げた。
久しぶりに握る感触。
情けないことに、手はまだ震えている。
それでも――
「アイリを一人には出来ない。」
自分でも驚くほど、その言葉だけは迷いなく口を突いていた。
手の中には、失ったはずの短槍。
久しぶりに握るその感触に、震えていた手が少しだけ落ち着く。
僕は一歩踏み出す。
あの日。
僕はアイリの手を取った。
だから今度は――
「僕たちの番だ。」
そう言い残し、僕は森の奥へ駆け出した。




