第二十五話 救援
「落ち着いて、みんな。まずは一本だよぉ。」
天高く掲げられたアイリの人差指。
小隊長として味方を鼓舞したつもりなのだろうが、彼女の気遣いは誰の耳にも届かなかった。
絶えず続く斬撃音と鳴り止まないダイアラットの断末魔。
それは先へ進むにつれて増していく。
圏外に出て早くも一時間。
アイリ率いる最前衛の小隊は順調にその距離を伸ばしていた。
だが、それでも背後に望む街の城壁は、いまだ視界から消えてはいなかった。
「ちきしょう!何だよ、ちっとも減らないじゃないか。」
草原を駆け回るダイアラットの群れ。その数は時間を追うごとに増していく。
額から零れる汗。
呼吸は乱れ、肩の筋肉は軋む。
アイリの言葉が入らなかったのはこのためだ。
次第に隊員たちの顔にも焦りの色が見え始めていた。
その時――
「任せといて。」
言葉が空から舞い降りる。
そして辺りが一瞬、影に落ちた。
――アイリだ。
隊員の一人を踏み台に宙へ跳んだアイリは、軽々と大剣を振り抜いた。
風を裂く斬撃が雨のように降り注ぐ。 隊員たちは思わず頭を抱えて身を屈めた。
次の瞬間、ダイアラットの群れがまとめて地面へ叩きつけられた。
土煙が舞い上がり、断末魔は一斉に途絶えた。
「大丈夫?」
アイリは伏せている隊員たちに声を掛けた。
「は、はい。」
隊員たちは一様に安堵の息を漏らす。 だが、アイリの表情は緩まない。
「なら早く立つよ。備えて。」
草むらがざわりと揺れた。
隙間から覗く赤黒い双眸。
一つではない。
その先に潜んでいたのは――ゴブリン。
「くっ、こんな時に。」
珍しくアイリが愚痴を零した。
ゆっくりと立ち上がる隊員たち。
その誰もが最前線を任される黄昏の航路の精鋭。
それなのに皆揃って息が上がって動きが重い。
無理もない。
この一時間、襲いかかる牙を避け、ひたすら剣を振るい続けた。
心を削って、身体に鞭打って……。
並のプレイヤーならすでに犠牲者が出ていてもおかしくない。
草を踏む音、枝の折れる音。
ゴブリンたちは警戒を解かない。 じっくりとこちらの様子を窺いながら、少しずつ距離を詰めてくる。
アイリは不用意に飛び込まず、大剣を構えて距離をとった。
それを見たゴブリンも無理に不敵な笑みを浮かべながら、こちらを窺っている。
――膠着が続く。
一人なら……。 この数なら……。
私一人で、なんとかなるかもしれない。
アイリの脳裏にふとよぎる。
だが、その考えは指先に伝達する前に止めた。それでは他の隊員を守りきれない。
そんな中、遠征隊の外縁を進む斥候から索敵伝令が飛ぶ。
「左翼前方、緊急!」
「ゴブリン群を確認! 推定十五、進路そのまま!」
アイリは舌打ちした。
またか――。
これで何度目だ。
倒しても倒しても、次の群れが現れる。
これではいずれ……。
「右翼前方、接触!」
「左翼中段、異常なし!」
だが、索敵網はまだ生きている。
そう思った矢先だった。
「右翼前方、突破!」
声色が明らかに違う。
「ゴブリン群が内側へ侵入! 数不明!」
その瞬間、アイリの《勘》がビリビリと警鐘を鳴らす。
まずい――。
アイリは反射的に前方へ視線を向けた。
土埃が舞っている。
そして次の瞬間、それまで様子を窺っていたゴブリンたちが一斉に駆け出した。
索敵が破られた。
まるで、その報告を待っていたかのようだった。
しまった――
アイリは背後へ意識を向けながら、大剣を薙ぎ払う。
唸り声を上げたゴブリンたちが吹き飛ぶ。だが、踏み込みが甘い。
隊員たちを守るため、前へ出られない。
その一撃は致命傷には至らなかった。
立ち上がれ。
早く――。
願いとは裏腹に、隊員たちの身体は動かない。
疲労はとっくに限界を超えていた。
それでもアイリは何度も大剣を振るった。
迫り来るゴブリンを薙ぎ払い、後方へ意識を張り巡らせる。
だが、それでも足りない。
「うわぁ!」
悲鳴が響いた。
反応はした。
けれど、動けなかった。
目の前にはなおも流涎しながら迫るゴブリンたち。
今は大剣を振るい続けるので精一杯だった。
そして――。
アイリが最後の一匹を斬り伏せた時には、隊員の半数が姿を消していた。
言葉が出てこない。
生き残った隊員たちもまた、何も言えなかった。
重苦しい沈黙だけが草原を支配する。
《パチン!》
頬を張ったアイリは、残った隊員たちへ向かって叫んだ。
「立てぇ!」
その声には、先ほどまでの迷いはなかった。
隊員たちは弾かれたように顔を上げた。
「本隊からの救援は?」
アイリの言葉に、皆揃って首を横に振った。
「陣形は崩せない。」
誰かが力なく答える。
アイリは奥歯を噛み締めた。
そんなの、もう機能していない。
喉元まで込み上げた言葉を、無理やり飲み込む。
今ここで感情をぶつけても何も変わらない。
失われた仲間は戻らない。
そして――
自分が崩れれば、この場に残った者たちも終わる。
アイリは大剣の柄を強く握った。
「だったら、私たちでやるしかない。」
震えそうになる声を押し殺しながら、そう言った。
後方より伝令が飛ぶ。
「本隊より伝令。前衛は本隊に合流した後、前進。」
「なに!? 撤退じゃないの?」
思わず、アイリの口から本音が零れた。
半数が消えた。
索敵網は破られた。
陣形もまともに機能していない。
それなのに、まだ進むというのか。
レグナスはこの状況を知った上で、なお前へ進むつもりなのか――
アイリの胸に疑念がよぎる。
今回の遠征は失敗だ。
肩慣らしのはずだった遠征は、すでに取り返しのつかない段階へ足を踏み入れている。
命を優先するなら、ユマークなら迷わず撤退を選ぶはずだ。
《あいつは勇者なんかじゃない。》
ふと、ターバン男の言葉が脳裏をよぎった。
レグナスは止まらない。
勇者は諦めない。
それがどれだけの犠牲を積み上げることになろうとも。
勇者という幻影に縛られたあの男には、引き返すという選択肢そのものが存在しないのかもしれない。
アイリは目を閉じ、一つ深呼吸した。
今は考えるべきではない。
迷っている時間も、立ち止まっている余裕もない。
アイリは大剣の柄を握り直した。
「……まずは本隊と合流するよ。」
隊員たちが顔を上げる。
「先のことは、その時に考えよう。」
アイリはそう言って踵を返した。
誰も異論は口にしなかった。
口にするだけの余力がなかったという方が正しいのかもしれない。
隊員たちは傷だらけの身体を引きずるように歩き出した。
草原には点々と続く戦闘の痕跡。
倒れたダイアラット。
踏み荒らされた草地。
そして、途中で途切れた足跡。
『右翼前方、突破』との知らせは入っていたが、よもやこれほどゴブリンの侵攻が早いとは思ってもいなかった。
これではすでに本隊も……。
アイリの脳裏に嫌な予感がよぎる。
胸の奥では《勘》が小さく警鐘を鳴らしていた。
程なくして、前方から金属音と怒号が聞こえ始める。
――本隊だ。
発見した安堵も束の間、その予感は現実のものとなった。
本隊はすでにゴブリンの群れに包囲されていた。
周囲には散乱した武具と補給物資。 防衛線は大きく押し込まれ、各所で激しい戦闘が続いている。
「なぜ……。」
アイリは力なく息を漏らした。
陣形が崩れたとはいえ、この周辺ではまだ各小隊が戦っているはずだ。
それなのに、本隊がここまで追い込まれている。
理解が追いつかない。
「そんな……。」
駆け出さなければならない。
助けなければならない。
頭では分かっている。
それなのに足が動かない。
大剣を握る手は震え、身体は鉛のように重かった。
小隊を守れなかった。
仲間を失った。
それでも前を向こうとしていた心が、今度こそ限界を迎えようとしていた。
胸の奥に、重たい絶望が広がっていく。
その時だった――。
戦場を震わせるような轟音が響いた。
続いて大きな砂煙が舞い上がる。
「うりゃああぁ!」
豪快な雄叫び。
両手斧が唸りを上げ、ゴブリンの群れをまとめて吹き飛ばした。
鈍く光る鉄色のフルプレート。
その巨体は、まるで戦場を突き進む鋼鉄の塊だった。
「アルクさん!」
フルプレートの大男はその声に気付くと、振り返って笑った。
「俺たちが一番乗りだと思ったんだがな。」
そう言って親指で背後を指し示す。
「どうやら先を越されちまったらしい。」
「俺たち……?」
アイリはその視線を追った。
掛け声と共に砂煙が舞う。
次の瞬間、四方から斬撃が閃いた。
「お嬢、待たせたな!」
聞き覚えのある声だった。
ガルドだ。
「さぁ、暴れるぜぇ!」




