第二十七話 撤退
肉を断ち切る音。
骨の砕ける音。
そして、断末魔。
それらは絶え間なく、戦場に響いている。
倒れたゴブリンの屍を踏み越えるように、新たな群れが姿を現す。それはまるで、草原そのものが魔物を吐き出しているかのようだった。
アイリたちは、終わりの見えない戦いに焦りを募らせていた。
「なんだ、こいつら! どんだけ湧いてくるんだ。」
威勢良く飛び出したガルドであったが、今はその息遣いが大きく乱れていた。
「うるせぇ! 文句言ってねぇで、手を動かしやがれ。」
アルクの怒鳴り声で一瞬ゴブリンがたじろいだ。
だが、そのすき間を縫うように後続が次々に押し寄せる。
アルクは舌打ちすると、迫るゴブリンへ両手斧を叩きつけた。
アイリもまた、押し寄せるゴブリンを薙ぎ払い続けていた。
断末魔をあげ、宙を舞うゴブリンの群れ。
だが、その死骸が地面につく頃には次の赤い双眸が隙を狙っている。
彼女の《勘》スキルは、もう止むことはなくなっていた。
「確かに……、これじゃキリがないわ。」
答えは決まった。
《撤退》
この決断に、アイリの迷いはなくなった。
生きて帰るために。
ミルズガルズへ辿り着くために。
もはや、一刻も猶予もない。
アイリは縋るように本隊中央へと視線を向けた。
――レグナス。今なお《勝利の剣》を掲げ、味方を鼓舞し続けている。
だが、彼の顔からはいつもの余裕は消えていた。
それでも進むつもりなのだろう。
(やっぱり……。)
アイリは静かに目を伏せた。
(私たちは、一緒じゃない。)
《同じ匂いがする》
かつてレグナスに言われた言葉。
今、ようやく分かった。
誰かを危険に晒してまで進むなんて……。
私には出来ない。
「レグナス!」
アイリは持てる限りの声で叫んだ。 そして、呼んだ名前の終わりを待たず、駆け出していた。
一閃。
レグナスに群がるゴブリンは、叫ぶ間もなく弾け飛んだ。
「レグナス! 今なら間に合う、撤退だ。」
二人の間に一瞬、沈黙が落ちる。
「……そうか。」
そう呟いたレグナスは静かに笑った。
そして、迷うことなく振り返る。
「聞け! 同志たちよ。」
「ここで退けば、散っていった同志たちが託した思いはどうなる?」
「私たちが何者にも怯えずに生きる世界、それを取り戻す為に……、」
「進め〜!!」
「うおぉぉぉっ!」
唸り声とともに意匠の剣が一斉に天高く掲げられる。
次の瞬間、本隊は雪崩を打つように前へ飛び出した。
崩れる陣形。
開いた隙間へ、ゴブリンたちが殺到する。
辺り一面に血飛沫の花が舞った。
「……そんなぁ。」
アイリは力なくその場に崩れ落ちた。
大剣を握る指は震えて力が入らず、膝はガクガクと音を立てる。
助けられなかった。
こんなに頑張って走ったのに……、
こんなに一所懸命に剣を振ったのに……。
結局、誰も救えなかった。
背後から、次の獲物と狙いを定めたゴブリンの唸り声が聞こえる。
立たなくちゃ、 戦わななきゃ……。
気力の途切れた身体では、疲労にすら打ち勝てない。それを察したゴブリンは奪い取った意匠の剣で容赦なくアイリに襲い掛かる。
危険!!
アイリの《勘》が絶叫する。
それでも身体が動かない。
間に合わない。
そう悟った瞬間――
不意に陽光を遮る大きな影が視界が陰った。
誰かが、アイリとゴブリンの間に割って入ったのだ。
そして――
鉄を貫く鈍い音が響いた。
「……え?」
アイリが見上げたその先には……。
――広い背中、
――見慣れた後ろ姿、
――震える指先、
そして、背中から突き出た剣先。
「アルク……?」
なんで――
アイリの喉から震えた声が漏れる。
「ダメじゃねぇか。」
アルクは苦笑した。
「あいつらが待ってんだろ。」
言い終えると同時に、その巨体がゆっくりと崩れ落ちた。
「……っ!」
ガルドは一瞬言葉を失い、次の瞬間には地面を蹴っていた。
「お嬢―― 立て!」
「ガルガルさん……、私……。」
アイリの震えた声がか細く響く。
それを聞いたガルドはアイリの腕を掴んで引き上げた。
「いいから、立て!」
アイリの視線の先には地面に伏したフルプレートの大男。
もう、動かない。
「お嬢。良いか、よく聞け!」
アイリの目を見つめるガルドの顔には涙が伝っている。
「あんただけでも……、逃げるんだ。そして、俺たちのことをみんなに語ってくれ。」
ガルドの声が上擦っている。
「こんな戦い、二度と起こすな。」
そう言うとガルドは笑いながら、アイリの背中を押した。
「早く、行け!」
掛け声と共にガルドは剣を振り回した。
当たろうが当たらないかは関係ない。
アイリが立ち去る時間が作れれば、それで良かった。
アイリは一度だけ唇を噛み締めた。
それでも――涙を拭い前を見た。
「!?」
目の前はすでに無数の赤い双眸に取り囲まれていた。
しまった。
人が集まりすぎた……。
小隊との戦いを終えたゴブリンが次々と本隊へと雪崩込む。
完全に囲まれた。
逃げ場など何処にもない……。
「何やってんだ、早く……。」
ガルドは振り向き、ようやく状況を理解した。
「ちっ、ここまで……か。」
舌打ちしたガルドは力なく項垂れた。
「ごめんね、ユマくん。ごめんね、ナンナ。」
(私……、帰れそうにないや。)
その時だった。
乾いた蹄の音が、戦場の奥から響いた。
ゴブリンの咆哮に紛れて、それだけが異質なリズムを刻む。
――来る。
次の瞬間、包囲の一角が“裂けた”。
黒い影が、群れの側面を抉るように駆け抜ける。
蹄が地面を蹴るたび、血飛沫が弧を描いた。
その背に乗る男は、静かに槍を構えている。
「……遅いな。」
風が鳴った。
次の瞬間、包囲の一角が内側から崩れ落ちた。
「ユマくん!」
「アイリ、掴まれ!」
馬上から差し出された手を、アイリは反射的に掴んだ。
そのまま身体が一気に引き上げられた。
「しっかり掴まってろ!」
ユマークは叫ぶと、馬の腹を蹴った。
本隊の周囲を駆け抜ける。
その軌跡に合わせるように、ゴブリンの動きが一瞬だけ止まった。
「みんな、ついて来い!」
自分でも驚くほどの大声が戦場に響く。
次の瞬間、馬は大地を蹴り、群れの隙間へと飛び込んだ。
地響きとともに、包囲は裂けるように崩れていく。ユマークたちはその裂け目を駆け抜けた。
背中に伝わる体温が懐かしい。
あの時よりも今日は一層熱く感じる。
「ユマくん……、」
アイリの声は、今にも消えそうなほど弱かった。
「どうして……」
アイリは言葉の続きを、うまく繋げられないでいた。
馬上の揺れの中で、ユマークは一瞬だけ視線を落とした。そして、すぐに前を向いた。
「間に合った。」
ただ一言。それ以上は言わなかった。
これで終わる、とでも言うように。
「ユマくん、ダメ。」
アイリの声が少しだけ鋭さを帯びる。
「このままじゃ、ガルガルさんたちが追いつかれちゃう。」
「あぁ、それなら心配ない。」
その言葉と同時に、行く手を塞ぐように二つの影が現れた。
鉄槌を肩に担いだ女と、無駄のない動きで立つ騎士風の男。
既視感のある光景。
「リッカさん!」
その声を合図に、空気が変わる。
今度は頭上。
無数の矢が、光を裂くように降り注いだ。
――ナンナだ。
「みんな……。」
息を呑むアイリの声を遮るように、短く命が落ちる。
「今です。」
ナンナの一言で、リッカとアルセリオンが駆け出した。
殲滅ではない。
ただ、道を開くためだけの動き。
初めて組んだとは思えないほど、迷いのない連携が退路を形にしていく。
結局、ゴブリンは深追いしてこなかった。
それが“追う必要がない”と理解したからなのか、それとも別の理由があるのかは、もう誰にも分からない。
ユマークは手綱を握ったまま、一度だけ後方を振り返った。
崩れた戦場の中に、もう戻れないものが残されている。
だが、誰も何も言わなかった。
言葉にしてしまえば、何かが終わってしまう気がしたからだ。
だから、今はただ前を向くしかなかった。
馬は速度を落とさないまま、草原を駆け抜けていく。
その背に、沈黙だけが積もっていった。
そして、その中に――アルクはいなかった。
街へ戻れた者はほんのわずか。
両手の指で数え切れるほどしか残っていなかった。




