第二十話 一歩の重さ
「どうしよう、ナンナが行っちゃった。」
そう言ったアイリは珍しく狼狽えていた。 顔は引き攣り、肩が落ち着きなく揺れている。
明らかに彼女の《勘》が何かを告げている。
残念なことに、このスキルが発動するときは決まって碌でもないことが起こる。
それが眠りを妨げてまで反応するのだから余程のことだ。
いつもなら考えるより先に飛び出しているところだが、今回はその足が動かない。
行かなければならない。
それなのに行けない。
小刻みに震える膝が、その葛藤を何より雄弁に物語っていた。
――でも、今は考えてる暇はない。
「アイリ、行くぞ。」
彼女の腕を掴んだ僕は取るものも取らず、部屋を飛び出した。
昨日とは一転、今日はどんよりとした雲が垂れ込めていた。この世界に来てから、こんな天気は一度も見たことがない。
偶然――そんな簡単な言葉で片付けられない。
言い知れぬ不安が脳裏を過ぎった。
《ナンナがいなくなった》
今まで、一度だってこんなことは無かった。
年下のくせに妙に落ち着いていて、自分のことより仲間を優先する少女。
困った人を放っておけず、危険だと分かっていても見捨てられない。
そのくせ変なところで頑固で、時々こちらの予想を斜め上から裏切ってくる。
そんなナンナだからこそ、気づいてしまったのだろう。
アイリが迷っていることも……。
僕では、そのアイリを止められないことも……。
だから、一人で行った。
そんなお人好しを拗らせたあの子が向かう先なんて、一つしかない。
礼拝堂――黄昏の航路の拠点。そして、レグナスの居城。
寝過ごしたとは言っても、まだ夜が明けて間もない。当然、人通りは疎らで中央広場までは順調だった。
あとは北門へと抜ける石畳を行けば直に目的地は見えてくるはずだ。
昨日は二日酔いのアイリを連れていたせいで時間は掛かったが、今日は違う。
僕に手を引かれながらも、アイリは必死についてきていた。
だが、彼女の顔にいつもの明るさはない。
何か思うところがあるのだろう。それは分かる。
それでも今は――走るしかない。
広場の噴水に差し掛かった頃、行く手に人集りが出来ているのが見えた。何やら騒がしい。
飛び交う怒号、そして罵声――
嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「くそっ、遅かったか。」
彼女の手を離し、僕は人集りを掻き分けて進んだ。
「……ち、違う。」
そこには取っ組み合いの喧嘩をしている二人の男たち。どうやら報酬の取り分で揉めているらしい。
(ダメだ……。)
ナンナはこんなところで揉め事を起こしたりしない。
そんなこと、少し考えれば分かるはずだ。それなのに今は、不安が胸の奥に止め処なく押し寄せて、冷静に考えることさえ難しい。
僕は大きく息を吐いた。
それにしても、最近はこういう光景も珍しくなくなった。
この世界に閉じ込められてから、もう随分と時間が経ち、焦りや不満を抱えた者も少なくない。
これを見て、アイリが何を思うのか。
――考えるまでもない。
いつものあいつなら、とっくに仲裁に飛び込んでいる。
だが、今はそれができない。
ナンナを追えなかった時と同じように、足が止まってしまっている。
きっと、気づいてしまったんだ……。
自分の迷いで誰かを傷つけるかもしれない。
だから、怖いんだ……。
その一歩を踏み出すのが。
「行くぞ。」
「えっ……。」
アイリはこちらに視線を向けた。
「今はナンナだ。」
そう言って、彼女の手を取った僕は再び走り出した。
◇
整然とした切妻屋根の建物が並んでいた。
昨日はアイリの世話で気に留める余裕もなかったが、こうして改めて見ると、どこか寂しげに映る。
どんよりとした空模様と行き交う人の数も少ないせいだろう。街全体が少し陰を帯びて見えた。
視線の先にはあの礼拝堂、さらに奥には北門が見えてきた。
アイリの息遣いが荒い。
いつもは、どれだけ大剣を振り回してもけろっとした顔をしているのに、昨日からおかしい。
――気持ちが、身体に追いついていない。
『アイリ、大丈夫か?』
浮かんだ言葉を、すぐに飲み込んだ。
乱れた呼吸もチグハグな走り方も……見れば分かる。
平気なわけがない。
だが、今それを口にするのは――たぶん、違う。
程なく、礼拝堂の入り口が見えてきた。
そこには守衛らしき二人の男が、扉を挟んで立っている。
腰に佩かれた意匠の剣には見覚えがある――《黄昏の航路》の連中だ。
「なにものだ、止まれ!」
それを合図に、僕はアイリの手を離した。
一気に加速する。
途中、何度か怒鳴り声が飛んできた気がするが、耳には入らない。
守衛たちは慌てて剣の柄に手を掛けたが、その頃にはもう遅かった。
僕は身を屈めて二人の間をすり抜けると、そのまま扉へと肩から突っ込んだ。
乾いた破裂音と共に、礼拝堂の扉が開く。
昔見たアクション映画さながらの大スタント。昂ぶった気持ちのせいでその勢いは最高潮に達していた。
……だが、
礼拝堂の扉は思ったよりも軽かった。
肩に伝わるはずの衝撃はなく、僕は勢いそのままに室内へ飛び込む。
「あっ――」
間抜けな声を上げる暇もない。
身体はぐるぐると回転しながら長椅子へ突っ込み、派手な音を立ててなぎ倒した。
なんとも締まらない。
まるでボーリング玉にでもなった気分だった。
「ユ、ユマークさん?そんなところでなに転がってるんですか?」
意外に元気そう……。
でも、歓迎された感じはなく、むしろ冷ややかな声色が頭上から降り注ぐ。
――ナンナだ。
「なにって? 君が急にいなくなったから――」
最後まで言わせてもらえなかった。
アイリは弾かれたように駆け出すと、ナンナを強く抱きしめた。
「よかった……。」
アイリの掠れた声が零れる。
「本当に、よかった……。」
まるで、そこにいることを確かめるように腕へ力がこもった。
「勝手にいなくならないでよ。」
責めるような言葉。
けれど、最後の方は上手く声にならなかった。
ナンナは目をぱちぱちと瞬かせる。
「ア、アイリさん?」
突然のことに戸惑っているのだろう。
けれど、振り払おうとはしなかった。
抱きしめる腕が小さく震えていることに気づいてしまったから。
しばらく迷うように視線を彷徨わせた後、ナンナはそっとアイリの背中へ手を回した。
「……すみません。」
その謝罪に、アイリは何も答えなかった。
ただ、ナンナを抱きしめる腕だけが少し強くなった。
そんな二人の姿を見せられたら、邪魔なんてできるはずもない。
僕はジンジンと痛む頭を擦りながら、ただ二人を眺めていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。」
アイリは抱きしめた手をそっと解くと、上擦った声を必死に堪えながら、ナンナに話しかけた。
「……怒らないんですか?こんなに心配させてしまったのに。」
彼女の声もまた啜り泣くように聞こえた。
アイリに問いかけたナンナが俯いたままなのは、心配をかけてしまったアイリの顔が見られないからだろう。
「話したくなってからで良いよ。」
アイリは少しだけ目元を拭いながら笑った。
「その代わり、その時はちゃんと聞かせてね。」
意外な返答にナンナも困惑を隠せない。
「君たち。いまさら、そういう訳にはいかないでしょう。」
僕の背後から声が響く。
優しげな声色のはずなのに、どこか感情を感じない冷たい声。
振り返るまでもない。
――レグナスだ。
ロングコートの優男は、ゆっくりと二人の元へ歩み寄る。
慌てて立ち上がろうとしたが、一瞬遅れた。
――しまった、間に合わない。
アイリはナンナを庇うように前に出る。
そして……、迷わず大剣を抜いた。
ペナルティキル。
――僕の脳裏に戦慄が走る。
通称、PK。
レッドタグ化や街からの追放といった厳格な罰則が示す通り、それは禁忌中の禁忌だ。
だが、それ以上に恐ろしいのは、相手を強制ログアウトさせること……。この世界で、それが何を意味するのか誰にも分からない。
――アイリに耐えられるはずがない。
だが、その剣先に迷いはなかった。
『動かば、斬る』
言葉はない。
それでも、その意思だけは痛いほど伝わってくる。
「や、やめろぉ!」
君に届け!
僕はありったけの声で――
「ようやく答えが出たようですね。」
僕の言葉を遮ったレグナスは穏やかに目を細めた。
「安心しました。」
レグナスは僅かに口元を緩めた。
「やはり、君からは同じ匂いがする。」
そう言い残すとレグナスは静かに背を向けた。
結局、今の僕では最後まであの男の言葉の意味は分からなかった。
それでも、ナンナを庇うように立つアイリは、いつもより少し大きく見えた。




