第十三話 背負う覚悟
「ナンナ、痛むか。」
「う、うん、平気です。」
……嘘だ。
アイリのチュニックを裂いて巻いた即席の止血布は布越しにもじわりと血が滲んでいる。
誰が見たって平気な傷じゃない。
《ラビットハンター》なんて揶揄されながらもそれなりに場数を踏んできたはずだった。
だが、今回ばかりはその経験の範囲を軽く超えている。
「確かこの先、西門ですよね。」
ナンナが前へ目を向けたまま呟いた。
彼女には《遠視スキル》がある。森の先の地形はある程度見えているはずだ。
「そう言えば来た道と違うね。」
隣を歩くアイリが、いつもの調子で返した。
緊張感がないわけじゃないのだが、彼女はこういう時でも妙にマイペースだ。
けれど、その少しズレた言葉が、張り詰めた空気をわずかに緩めてくれている。
「そうだな。」
僕は短く返した。
ナンナの言いたいことは分かっている。
この先は――短剣が見つかった街道。
そして、ナンナが最初に異変を察知した場所でもある。
彼女はまだ、あの日を乗り越えられていない。
気にするなという方が無理な話だった。
だが――
あの時はこうする他なかった。
怪我人をゴブリンの群れに放り込むわけにいかない。
それにナンナを狙ったあの短剣――
もし、僕の考えが当たっているなら……。
朝早くに街を出たはずなのに、気付けば頭上を越えた日輪はすでに西へ傾き始めている。
ここが闇に沈めば、助かる確率は限りなくゼロに近い。
今の僕たちに出来るのは、踏みしめる小枝や枯れ葉の音を極力殺して進むこと。
そして、最悪の事態に備えることだけだ。
「アイリ、そろそろ準備しておいてくれ。夜になるまでにここを抜けるぞ。」
湿った空気が徐々に薄れ始め、頬を撫でる風にも開けた匂いが混じり始める。
もし、奴らが仕掛けてくるとしたら――。
《危険探知》が嫌なざわめきを鳴らした
――その直後、
森の奥で、鳥たちが激しく羽音を撒き散らし、弾かれたように飛び立った。
「来た!」
ユマークが視線を向けた先――木々の隙間から、数匹のゴブリンがぬるりと姿を現した。
赤黒い双眸が獲物を捉えたまま、じわり、じわりと距離を詰めてくる。
その手に握られているのは、肉を潰すためだけに削られたような武骨な棍棒――
握り締めるたび、湿った嫌な音が軋む。
「中央に三匹。……いや、」
ユマークの声を遮るように、右側の草むらが激しく揺れた。
短槍を長く持ち替えたユマークは、地面を蹴った。
低く身を沈めたまま前方へ滑り込み、弧を描くように足元を薙ぎ払った。
直後、その反動を乗せるように、右側の草むらへ短槍を突き込む。
奇怪な悲鳴――
ユマークはすぐに二人の元へ戻り、ナンナを庇うようにその前へ立ち、次の攻撃に備えた。
地面を転がったゴブリンは口端から涎を滴らせ唸り声を響かせる。
腹の底を掻き回すようなその声に、鼓膜がびりびりと震えた。
あの時と同じだ。
――でも、今は逃げるわけにはいかない。
呼吸は乱れ、肺が焼けるように熱い。
アイリは、いつもこんな前線で戦っているのだろうか。
そう思うと、これまでまともに鍛えてこなかった自分に少し腹が立った。
「……なんか、ゴメン。」
「えっ? 何が?」
「……アイリさん、ま、前――」
赤い双眸は感情に任せて一層ギラつき、獲物を囲うようにじりじりとその距離を詰めてくる。
――枯れ葉を踏み潰す音。
――小枝が折れる音。
――肌にまとわりつくような熱。
一歩、また一歩。
獣のような気配がこちらの息遣いをかき消していく。
アイリはその様子を見ながらゆっくりと身体の前で大剣を構えた。
静寂が流れる――
いつもならいの一番で飛び込むアイリだったが、今はそうはしなかった。
いや、出来なかったという方が正しい。
ここで大剣を振るえば手負いのナンナまで巻き込んでしまう。
アイリが瞬きをした瞬間――地面を叩きつけるような足音とともに粉塵が舞い、一匹のゴブリンが突進してきた。
迎え撃つように、アイリの大剣が地を薙ぎ払う勢いで斬り上がる。下から跳ね上がった刃に掬われ、ゴブリンの身体が宙へ浮いた。
だがその瞬間、残る二匹が左右から脇腹めがけて棍棒を叩きつける。
ユマークも慌てて短槍を振るう。
だが、あと一歩――その一歩が出なかった。
メキメキ、と骨の軋む嫌な音が響く。
アイリの表情が苦痛に歪む。
それでも、よろめきながら踏み止まったアイリは、振り抜いた勢いのまま大剣を叩き降ろした。
「……アイリさん。」
か細く震えるナンナの声。
それ以上、言葉は続かなかった。
何かを言おうとしたのだろうが、それが見つからない。
その不安を感じ取ったのか、アイリはそっと振り返り、安心させるように静かに笑ってみせた。
喉が張り付いたように、言葉が出てこない。
『大丈夫?』
そんな簡単な一言すら、かけてやれない程に心がざわめいている。
分かっていたんだ……。
僕にはアイリ程の才能はない。
ナンナみたいに、真っ先に誰かを心配することも出来ない。
今だって、身を投げ出せば彼女の盾くらいにはなれたはずだ。
でも、しなかった、 出来なかった。
僕を信じてここまでついてきてくれた二人を、今、見殺しにしようとしている。
ガラガラと心が崩れていく音がした。
二人の息遣いも、その熱も、途切れかけた意識の中で遠ざかっていく……。
「ユマークさん、あれ……。」
喉を鳴らす声。
枯れ葉を踏み潰す音。
枝がわざとらしく軋む音。
それらが四方から重なり合う。
だが、そんな感情に向き合う時間すら与えてくれない
――もう、奴らは身を隠さない。
怯える獲物を嘲笑うように、ゴブリンたちは三人を囲み、じわり、じわりと距離を詰めてくる。
「ユマークさん、私たちのことは気にせず逃げてください。」
「そうだよ、ユマくんだけなら逃げられる。」
震える声だった。
今にも泣き出しそうなのに。
悔しくて、怖くて、壊れそうなはずなのに――それでも二人は僕を逃がそうとしている。
胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
バカだ。
なんでそんなこと言うんだ。
なんで最後まで、僕のことなんか気にするんだ。
喉が震える。
息がうまく吸えない。
「みんなで帰らないと意味がない……!」
掠れた声を無理やり吐き出す。
震える膝を、必死に踏み止めた。
「僕たちは三人で、《ラビットハンター》だ……!」
「ち、ちょっと……、何するのっ!?」
抗議も構わず、ユマークはアイリを背負った。
「ま、待って!自分で歩けるから!」
「うるさい、しっかり掴まってろ。」
短く言い切られ、アイリは言葉を詰まらせる。
背中越しに伝わる体温が近い。
その事実を意識した瞬間、アイリの顔が熱を帯びた。
「ナンナ、走れるか。」
「は、はい……!」
ユマークは短槍を逆手に構えるとこれまで小馬鹿にした表情を浮かべたゴブリンが一瞬たじろいだ。
その隙を見逃さなかった。
ユマークは包囲の一点へ向け、躊躇なく短槍を投げ放つ。
風を切る音とともに、激しく回転する短槍が弧を描いた。
次の瞬間、ゴブリンの群れを薙ぎ裂く。
血飛沫が舞い、耳障りな悲鳴が森に響いた。
――包囲の一角が僅かに崩れた。
「今だ、走れ!」
号令を合図に、ナンナは地面を大きく蹴り上げた。舞い上がった砂埃がゴブリンの視界を遮る。
続けざま、ナンナは咄嗟に足元の石を掴み、横手の茂みへ投げつけた。
――がさり、と枝葉が鳴る。
奇襲と思ったのか、数匹のゴブリンが反射的にそちらを振り向いた。
確実に緩んだ包囲の綻びへ、
ユマークは迷わず地面を蹴った。そして、背にアイリの重みを感じながら、その裂け目へ身体ごと突っ込んだ。
続いてナンナも痛む右腕を押さえながら、必死でユマークたちの後を追う。
ゴブリンの包囲からは何とか逃れた。
だが、まだ安心はできない。
いつ奴らが追いつくか分からない。
もしかしたら、新手が現れるかもしれない。
心臓が激しく脈打つ。
胸の奥は焼けるように熱かった。
一歩踏み出すたび、ぬかるみに足を取られる。
枝や根が絡む地面の衝撃で身体が大きく揺れ、落ち葉を踏み潰す感触が遅れて響く。
そのたび、跳ねるような振動が何度も背中へ伝わった。
それでも歩みは止められない。
せめて、もう少しだけ――。
「アイリさん、それじゃユマークさんが可哀想です。」
息を切らしているはずなのに、ナンナの声は妙に落ち着いていた。
その冷静さが、逆に不気味ですらある。
「えっと……、だから、降ろしてって……」
「そうじゃなくてですねぇ。」
ナンナは小さく首を傾げた。
呼吸は乱れている。
それなのに、視線だけが妙に澄んでいた。
「……出来るだけ身体を預けて下さい。その方がお互い安定します。」
「頼む……。」
「は、はい……。」
アイリの細い腕が、ふわりとユマークの首へ絡みつく。
揺れるたび、互いの頬がかすかに触れ合った。
「……こっち、見ないでよ。」
尻すぼみに小さくなる声。
「出来るか!」
それでも意識は勝手に細部を拾ってしまう。
――頬に触れる微かな熱。
――髪がかすめる感触。
――背中越しに伝わる体温。
走ることに集中すれば、他に気を回す余裕なんてないはずだった。
それなのに。
距離が近いほど、意識だけが妙に鮮明になる。
前を見ているつもりなのに、視線の端がわずかに揺れた。
「ユマくん――右!」
そんな思考を断ち切るように、アイリの声が飛ぶ。
その瞬間――
「だめだ――左!」
反射的に軌道を切り替える。
ナンナが一瞬、迷う気配を見せた。
だがユマークは構わず、身体ごと進路をねじ込むように押し変えた。
「ちょっと……。」
アイリの声が割り込む。
次の瞬間――
「伏せろ!」
直後、前方から飛び出したゴブリンの剣が空を裂いた。寸前で身体を屈めたので刃は何も捉えず、そのままゴブリンごと地面へ崩れ落ちた。
「そのまま走れ!」
ナンナは痛む右腕を押さえながら、それでも食らいつくように次の一歩を踏み出す。
――でも、それは僕に向けたものでもあった。
ぬかるみが沈む。
膝が軋む。
それでも、背中の温もりだけは絶対に離せない。
どれだけ走っただろうか。
西へ傾いた日輪は、いつの間にか森の奥へ赤い光を長く差し込み、薄暗い影が少しずつ視界を侵し始めていた。
それなのに、背後へ張り付く気配だけは消えない。
――ぬかるみを乱暴に踏み潰す足音。
――喉を鳴らす声。
――枝をへし折りながら迫る気配。
その数は、じわじわと増えている。
もう、僕たちも限界が近かった。
ナンナの顎は上がり、乱れた呼吸が浅く繰り返されている。
背中のアイリも、ことごとく進路を否定され続けているせいか、不満げに何度も身体を揺らしていた。
顔なんて見えなくても分かる。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
「ちょっと、ユマくん。ねぇ、聞こえてる!」
アイリには悪いが、今はその苛立ちに付き合っている余裕がない。
僕だって、もう限界だ……。
「ユマくん――真っすぐはダメ! 避けて!」
アイリの声が響く。 ――アイリの勘が叫ぶ。
そして、《危険探知》も激しく警鐘を鳴らしていた。
だが、もう駄目だ。
霞む意識の中では、何も上手く拾えない。
もう少しで――。
次の瞬間――
轟音が鳴り響く。
地面が爆ぜ、視界いっぱいに土砂と粉塵が吹き上がる。
直後、ユマークたちへ飛び掛かろうとしていたゴブリンの身体が、潰れた果実みたいに宙へ弾け飛んだ。
鮮血が舞うその中心。
沈みかけた夕陽を背に、一人の女が鉄槌を肩へ担いだまま立っていた。
細い身体。
だが、その姿は巨岩みたいな威圧感を放っている。
握られた鉄槌には、砕けた骨と血がべっとりと張り付いている。
「遅いと思ったら、まったく。」
呆れたように吐き捨てながら、リッカはゆっくりと鉄槌を構えた。
直後――
背後で銀閃が走る。
遅れて、耳を裂くような斬撃音が森へ響き渡った。
「嬢ちゃん、捕まれ。」
振り返る間もなく、フルプレートの大男がナンナの腕を掴み、そのまま軽々と抱え上げる。
「アルクさん!」
消え入りそうな声。
だが、その響きには確かな安堵が滲んでいた。
「よし、回収したならとっととずらかるよ。」
リッカたちに続き、僕たちは森の中を駆け抜けた。
湿った風が途切れる。
次の瞬間、視界が一気に開けた。
赤く染まった夕陽が差し込み、背後でざわめいていた森が遠ざかっていく。
――僕たちは、ようやく森を抜けた。
第三街道。
森を抜けた先の道を、僕たちは無言のまま歩いていた。
「ユマークさんも人が悪いです。リッカさんたちと合流するつもりだったんなら、そう言って欲しかったです。」
頬を膨らませたナンナが、最初に口火を切る。すでに息は整っていたが、やはり納得はしていないようだった。
「そうだな。それは私も聞きたい。なぜ私たちがあそこにいると分かった?」
リッカの鋭い視線が向けられる。
その空気に、アイリとナンナは思わず顔を見合わせた。
「リッカさんなら、きっとあの場所に辿り着くと思ったんですよ。」
「それでは説明になっていないぞ。」
ユマークは懐から一本の短剣を取り出した。
「それは?」
「ナンナを襲った短剣です。」
刃を見た瞬間、アイリが眉を寄せる。
「……黒麦酒の短剣。」
「そう。護身用か投擲用で持っていた、ごく普通の短剣です。」
「じゃあ、犯人はあの黒麦酒ってこと?」
「いや、それはない。」
ユマークは首を振った。
「いけ好かない奴ではあったけど、あんな露骨な真似をするほど馬鹿じゃない。」
「じゃあ、どうして……?」
「黒麦酒は、もうこの世界にいない。」
静かに短剣を握り直す。
「馴染みのチャットから名前が消えていた。たぶん、もうこの世界にはいない。」
リッカの言葉にナンナは息を呑んだ。
「だから、この短剣は落ちていたんじゃない。ゴブリンが使ったんだ。」
「使った……?」
「戦利品として奪った武器を、そのまま狩りに流用したんだよ。」
そこまで聞いて、ナンナがはっと顔を上げる。
「あ……未帰還者遺品回収依頼。」
「そう。」
ユマークは頷いた。
「リッカさんなら、きっとこの答えに辿り着く。そして一つでも多くの遺品を回収しようとする、そう思ったんだ。」
「それで、わざとゴブリンが多い道を選んだと?」
「一か八かでしたけどね。」
苦笑混じりに肩を竦める。
「でも、最後はアイリの勘には助けられたよ。僕の《危険探知》だけじゃ、あそこまで正確には抜けられなかった。」
「全く……。」
リッカは呆れたように息を吐く。
「君は本当に大した男だ。」
呆れたように息を吐いたリッカへ続くように、アルクが肩を竦める。
「さて、それじゃこんなところに長居は無用だ。さっさと帰るぞ。」
アルクはそう言って、ちらりとユマークの背中へ視線を向けた。
「……そっちのお嬢ちゃんは、満更ではなさそうだがな。」
耳元から微かな寝息が聞こえる。
それなのに、『こっち、見ないでよ』という言葉と、赤く染まったアイリの頬が頭から離れない。
今更ながら、ユマークはうるさい心臓をどうすることも出来なかった。




