第十二話 森はまだ終わっていない
アイリたちが駆け出す、少し前――
「あぁ〜あ、行っちゃった。」
大木の幹に身を預けながら、ナンナは駆けていく二人の背を見送った。
しばらくその動きを目で追っていたが、やがて木々の影に溶けるように見えなくなった。
「ユマークさんも大変だなぁ。アイリちゃん、完全に直感で動くタイプだし。でも、だから放っておけないんだろうな。」
追おうと思えば追える距離だ。
だが、ほんのちょっとしたお節介と、草木の香りを運ぶ風があまりにも心地よかったので、ナンナはほんの少しだけここで休むことにした。
突き抜けるような青空と延々と続く新緑―― 今までゆっくりと景色を眺めたことはなかったが、改めて見るとこのシステムの解像度には驚かされる。
「うわぁ、あそこに湖があるんだ。今度三人で……って言ったら、お邪魔かな、やっぱり。」
そうなれば――
嬉しいはずなのに、何故か素直に喜べない。きっとその“嬉しい”の中に、自分の居場所だけがぽっかり抜け落ちている。
そのせいか、視線もまた静かに落ちていった。
その視線の先――
草むらの一角が、小さく揺れた。
ホップラビットか。
もしかすると、仕留め損ねた個体でも残っていたのかもしれない。
ナンナは反射的に弓へ手を伸ばす。
だが、呼吸を整えかけた次の瞬間――
草陰の先――その奥で、赤い双眸が光った。
忘れるはずがない。昨日、西門で見たあの目だ。
――ゴブリン。
しかも、一匹じゃない。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
気付けば、左右の木陰にも赤い双眸が浮かんでいた。
しまった。囲まれてる――
心臓がばくばくとうるさい。
逃げる?いや、走っても追いつかれる。
じゃあ、動かない方が……いや、でも――
考えが全然まとまらない。
「ぁ……や……っ。」
咄嗟に弓を握る手に力を込める。
けれど、小刻みに震える手では狙うこともままならない。
矢が尽きたら、それこそ終わりだ。
一匹ならまだしも、この数は――。
「あれ……?」
異様な静けさ……。
こちらがまだ気づいていないと思っているのか、なぜかゴブリンたちは飛びかかってこない。
木陰に身を潜めたまま、じりじりと位置を変えている。
まるで、こちらの出方を窺うみたいに。
「……おちつけ、おちつけ、おちつけ。」
意味のない言葉を繰り返す。
それでも、震えを押さえるにはそれしかなかった。
弓を構え直した瞬間
―― 一体が、びくりと身を引いた。
「……え?」
もう一度、息を整え、狙いを定める。
今度はより明確に。
するとゴブリンは、慌てて物陰へと引いた。
――怖がってる?
その瞬間、胸を締め付けていた恐怖が、ほんの少しだけ形を変えた。
そうか。
怖いんだ……。
私が奴を怖いように、奴も私が怖いんだ。
逃げれば終わる。
だからナンナは、震える腕で必死に弓を構え続けた。
木陰の奥でじっとこちらを見ている赤い双眸に向けて――
――その頃。
先に駆け出したアイリは、すでに遥か先を行っていた。山道という条件すら関係ない速度だ。
彼女の《勘》は、こういう地形でこそ鋭さを増す。
「まずい……」
判断が一瞬、遅れた。
アイリの背に意識を引かれ、ナンナへの注意が薄れていた。
枝を蹴り、斜面を滑り降りる。
《危険探知》のざわつきが、先ほどより明確に強くなる。
(……俺は、何をやってる)
胸の奥が冷える。慢心だ。感情に引きずられていた。
「頼む……無事でいてくれ」
木々を抜けた瞬間、視界が開けた。
――そして、ユマークは言葉を失った。
地面は抉れ、草は踏み潰され、折れた枝と矢が散乱している。その中心に、ゴブリンの死体がいくつも転がっていた。
まるで一方的に終わらされた戦闘の跡だった。
視線をずらすと、少し離れた場所にアイリの姿がある。そのすぐ後ろに、ナンナが身を隠すように立っていた。
ナンナは弓を下ろせずにいる。
恐怖とは違う、理解できないものを見る目で戦場の跡を見つめていた。その前で、血の匂いの中、アイリは一瞬だけ視線を逸らした――
「アイリ、下だ!」
叫ぶと同時に、ユマークは短槍を投げ放つ。
起き上がりかけていたゴブリンにそれが突き刺さり、そのまま動かなくなった。
「……ありがとう。」
「いや……、それより今日は戻ろうか。」
「は、はい。」
アイリより先にナンナが返事をした。
喉が少し乾いている。言葉を出すだけで、妙に疲れる。ナンナもきっと同じ気持ちなのだろう。
(……早く、離れよう。)
そう思った瞬間だった。
森の空気が、ほんの一瞬だけ“薄く”なる。
視界の端で、銀が走った。
次の瞬間――ナンナの体が跳ねた。
「いったぁッ!」
悲鳴と同時に、彼女の右腕が大きく揺れる。反射で腕を引いたその動きすら遅れているようだった。
(……当たった。)
一瞬で理解するより先に体が動き、地面に突き刺さった短槍を引き抜きそのまま構え直す。
ナンナは腕を押さえ、膝をつき動けない。
足元に落ちている短剣には、まだ乾ききっていない血が付着していた。――さっきの銀はこれか。
――まずい。
致命傷かどうかを確認する余裕はない。戦場では、その“迷い”が命取りになる。
「ナンナ!」
――地面を蹴る音。
――迷いのない踏み込み。
ユマークの声より早く、アイリが動いていた。
「大丈夫っ!?」
ナンナの腕に視線を落としたアイリの表情が一瞬だけ固まる。
――浅い、致命傷ではない。
それでも“戦闘中に入る傷”としては軽くない。
(今の……どこから、)
アイリの視線はすでにナンナではなく、森の奥、木々の隙間へと鋭く向けられる。
次の瞬間には、その身体が半分だけ前を向いた。
「まだいる……!」
声は低い。
怖さよりも、怒りに近い熱。
「ユマくん、下がって!また来る!」
声を上げた瞬間、周囲の空気が変わった。
森の奥で、何かが動く気配がする。追撃を待っているような、嫌な間。
これは偶然じゃない。
ただの投擲じゃない。
殺すための軌道でも、外すための威嚇でもない。
――“動きを止めるために、当てにきた”。
「ナンナが心配だ。ここは一旦引くぞ。」
小さく頷くアイリ。だがその視線は、今なお先ほどの攻撃の軌道の先――森の奥から外さない。
ナンナの身体を支えたまま、アイリはゆっくりと後退した。
足取りは慎重でありながら、迷いはない。
ユマークも短槍を構えたまま後に続く。視線だけは周囲から離さず、次に来る一撃に備えていた。
追撃は――ない。
それが逆に不気味だった。
森の奥には、もう何も見えない。
それでも――見られている気配だけは、消えない。
枝葉が風に揺れる音だけが、やけに遠い。
さっきまでの戦闘が嘘のように、世界は静かだった。
ナンナは腕を押さえたまま、視線を落とす。
痛みよりも先に、さっきの光景がまだ離れない。
アイリは前を向いたまま、歩を止めない。その横顔に、いつもの軽さはなかった。
ユマークは短槍を構え直し、森の奥を見た。
――何もないはずの場所を。
「……戻ろう。」
声は低く、短かった。
足を踏み出しかけて、ユマークは一度だけ視線を落とす。
(西側の街道……。)
それが正しいはずだ。
理屈では、そうなる。
それでも、背後の森だけは――
まだこちらを見ている気がした。
ユマークの《危険探知》が、遅れて小さく鳴った。




