アクアリウムの中で
「ねえ、青葉には近づかないでって言ったよね?一体どういうつもり?」
灯台での自由時間が終わってバスに戻ると木下が鋭い目つきで雪を睨んでいた。
「えっと、あれはどうしようもないというか青葉の方からやって来たし。不可抗力というか。」
「言い訳禁止。いい加減にしないと怒るから。」
雪のいい訳も通じることなく木下は爆発寸前だった。これから先は青葉を警戒しながら行動しないといけない。
「次からはちゃんと気をつけるから。それより今はどこに向かってるの?」
「はあ、だからなんでそんなことも知らないの?今は水族館に向かってるの!先生の話くらい聞いたら?」
だらしない雪に対して木下はバスの中だというのに構わずに雪に怒鳴っていた。クラスのみんなも笑いながら雪達を見ていた。
「ご、ごめんってば。とりあえず私は寝るからついたら起こして。」
「ちょっ、馬鹿。寄ってこないで!」
先ほど歩き回ったことで雪の体力はなく空気の抜けた風船のようにしぼんでいた。木下の膝は暖かくて落ち着く。
「ほら、早く起きて。みんな見てるから!」
「ん、もう無理。今は寝かせて。」
騒ぐ木下に気もかけず雪はすやすやと深い眠りについた。
「おーい、渡瀬さん。水族館に着いたから起きて。」
「ふわあ、もうそんな時間なの?分かった、すぐ行くから待ってて。」
目を覚まして辺りを見渡すと既にバスの中には梓しかいなかった。どうやら木下は起こしてくれなかったようだ。
「はあ、まだ体が重たいよ。というか日向はどこにいるの?」
「垣根さんなら先に一人で見に行ったよ。だからとりあえず私と一緒に回ろう?」
そう言って優しく差し出した手を握って雪は立ち上がった。基本的に三人でいることが多いため梓と二人きりは珍しい。なんだか梓も顔を赤くしてもじもじとしていた。
「うん、私も早く魚が見たいし中に入ろっか。ほら、行こう。」
「ふふっ、渡瀬さんと二人きりで嬉しいよ。渡瀬さんの手は暖かくて落ち着くな。」
いつもよりグイグイと来る梓に雪の方まで顔が赤くなる。とりあえず雪は気にしないことにした。陽キャのスキンシップは雪には重い。
二人は手を握ったままとても大きな水族館の中へと入った。ここはオーシャンパークといってこの辺りで一番新しくて大きな水族館だ。
雪もこの水族館に行ったことはなくワクワクとドキドキでいっぱいだった。
そもそも雪は海が好きで昔はよく水族館に行ってはぷかぷかと浮くクラゲに憧れていた。そんな幻想的な海の景色がずっと雪の心の中に残っていた。
「見てよ、真っ暗ですごく綺麗だよ。早く魚が見たいかな。」
中に入ると早速真っ暗な景色が広がり水族館のスタッフさんが丁寧に案内する。魚はもちろんペンギンやイルカもいるようで水族館の中は盛り上がっていた。
「もう、渡瀬さんってばはしゃぎすぎだよ。とりあえずこっちの方から向かおうね。」
梓が指を差した場所には大きな水槽ゾーンと描かれていて雪達は案内通りに進むことにした。
真っ暗な道を進んでカーテンを開けるとそこにはとても神秘的な場所にたくさんの魚が泳いでいた。
キラキラと光る水槽にサイズや種類を問わず泳ぐたくさんの魚達に雪も目を光らせた。
「ほら見て、あそこにエイがいるよ!ヒラヒラしてて可愛な。あっ、あっちにはジンベエザメまでいる!」
一つの大きくて小さな水槽という名の海にたくさんの魚がいてとても綺麗だった。雪は水族館の中ということも周りに人がいるということも忘れて水槽の中を泳ぐ魚に夢中になっていた。
「ふふっ、そんなに夢中になってる渡瀬さんは初めて見たな。」
そんな雪を見て梓は子供を見る親のような表情で笑っていた。
「うん、昔からずっと好きなんだ。ほら、魚って自由気ままで羨ましいでしょ。」
大自然の大きな海を泳ぐ魚達に夢中になっていると梓がピタッとくっつく。他のみんなはもう次のエリアに行っており雪と梓の二人だけの空間になっていた。
静かで綺麗な場所に二人きりというなんともロマンチックな状況だった。
「・・・そっか、渡瀬さんはそんなに魚が好きなんだ。なんだか羨ましいな。」
「どうしたの梓?梓には好きなものとかないの?」
少し表情の暗い梓に雪は疑問を浮かべる。少なくとも梓は園芸部だし裁縫が好きとも言っていた。そんな梓の不満そうな顔に雪はどうしたらいいか分からなかった。
雪が梓の顔をずっと見ていると梓は慌てた様子で訂正し始める。
「えっと、好きなものはたくさんあるよ。趣味だって好きな食べ物だって。ただそうじゃないの。」
誰もいない静かな空間だから梓の息が荒くなってるのがはっきり分かる。顔を真っ赤になってる梓を見て雪は全てを察した。
「分かった、梓ってば好きな人がいるんでしょ?一体誰なの?」
もじもじとした態度に赤面した表情。これは間違いなく恋する乙女の顔だった。梓の好きな人が気になる雪は梓の肩を掴んで問い詰めた。
「ふえ、えっと、それは流石に言えないよ。恥ずかしいから。」
「ねえ、ヒントだけでもお願い!クラスメイトなの?」
普段日向も梓も雪と一緒にいて恋愛には興味がないと思っていた。
「い、今はまだ教えられないよ。それより時間もないし早く次の場所に行こう?」
そう言って梓は誤魔化して雪の手を掴むと急ぐようにして次の場所へと向かった。
そこまで焦るとは梓の好きな人は一体誰なんだろうか?
梓の手を握ったまま次に来た場所はクラゲのたくさんいるエリアだった。ぷかぷかと水中に浮かぶクラゲがとても幻想的だ。
「見てよ、あそこのクラゲちっちゃくて可愛い!ほら、あっちのクラゲは触手が長くて凄いや。やっぱり私はクラゲになりたいなあ。」
ゆらゆらと浮かぶクラゲを見ながらそっと口にする。
雪は昔から海の生物の中でクラゲが一番好きで昔からクラゲになりたいと思っていた。
流れに身を任せてぷかぷかと浮遊しながら生きていくクラゲがずっと羨ましかった。雪もクラゲのように誰にも指示されずに自由にいたいと思っていた。
だから雪は海の中で泳ぐ生物が大好きだった。海という自由で大きな世界を旅してみたかった。
「渡瀬さんってばそんなにクラゲが好きなんだね。クラゲって顔とかないし触手だらけで少し怖くないかな?」
梓のその言葉に雪は目を光らせて一つのクラゲに指を指した。
「そんなことないよ。クラゲとは様々な種類があるんだけどものによっては不死身だったり体が発光したり毒があったりといろんな能力があるんだよ。その上、脳がないのに学習が出来たりとか未知の生物なんだよ!」
「わ、渡瀬さん?そんな早口で言われても分からないよ。もう少し分かりやすく教えて欲しいんだけど。」
突然の早口でクラゲの説明をする雪に梓は困惑するがその程度で雪が話を止めることはなかった。雪は一度スイッチが入ると満足するまで止まらないのだ。
「それに梓はクラゲに顔がないって言ったけどクラゲには眼点と呼ばれる目のようなものがあるんだ。眼点は複数あってそれを使って明るい方へ移動することが出来るんだよ。」
「そ、そっか。でもやっぱり毒とかあるし少し怖いよ。海とかにいるかもしれないし。」
もはや雪の熱量に引いてる梓を無視して雪はクラゲのことについて語り続ける。
「そしてクラゲの触手には獲物の捕獲という役割があって毒を使って獲物を捕まえるんだ。種類のよってはすごい強い毒もあるんだから!ただクラゲは夏頃はいないし浅瀬であればそこまで心配しないでいいから。」
そう言って雪は一度深呼吸しながら梓の肩を叩いた。
「ね、クラゲってばすごいでしょ?」
一通り語り終わった雪は困惑する梓を見ながら笑った。まだ語りたいこともあったが今はここで終わることにした。
そうでもしないと梓がパンクしてしまうし雪も既に疲れていた。
「ふふっ、渡瀬さんってば面白いや。」
「どうしたの梓、急に笑って。」
雪と梓はクラゲのエリアから移動して深海生物のエリアを見ていた。しかし、突然笑い出す梓に雪は頭を傾げた。
「だって、いつも学校でつまらなそうにしてる渡瀬さんがここまで楽しそうにしてるから。渡瀬さんの笑ってる顔が見れて嬉しい。」
「そっか、私も梓と回れて嬉しいよ。ほら、梓と二人きりってほとんどないじゃん?」
梓はいつも周りのことを気にして他人を優先するとてもいい子だ。初めて梓と出会った時から何も変わっていない。
「そうだね。・・・そうだ、一つ渡瀬さんに言いたいことがあるんだけどいいかな?」
袖を引っ張る梓に雪も静かに頷いた。
「どうしたの?悩みでも相談でもなんでも聞くよ?」
雪はそう言って梓が口を開くのを待った。少しの間沈黙が続いて雪の方まで緊張してしまう。
そして梓は勇気を出したのか唾を飲んで口を開いた。
「えっと、実は私渡瀬さんのことが・・・」
顔を真っ赤にした梓がそう言おうとした瞬間、後ろから唐突に背中を押されて雪は倒れてしまう。
「あっ、悪いぶつかっちまった。って渡瀬かよ。次は気をつけろよな。」
雪にぶつかった同級生は雪の顔を見るとそのまま無視して別の場所に向かおうとした。しかし、梓は同級生の腕を強く握っていた。
「待って、ちゃんと渡瀬さんに謝って!」
雪が顔を上げるとそこには雪とぶつかった同級生となんだか様子のおかしい梓が目を合わせていた。なんだか梓は怒っているようだった。
「おい、梓。そんな顔してどうしたんだよ。少しぶつかったくらいじゃねえか。」
「ねえ、渡瀬さんに謝ってよ。そっちが渡瀬さんにぶつかったよね?」
「まあ、なんだそんな怖い顔しないでくれよ。たかが体が当たっただけじゃねえか。それより梓も俺たちと来ねえか?」
そう言って謝る気のない同級生に梓はただ真顔で睨んでいた。そして優しく無言で雪を強く抱きしめる。
「いいから早く渡瀬さんに謝って!それに私は渡瀬さんといるから。」
「ひっ、分かったよ。すぐ謝るからその顔をやめてくれ!渡瀬、本当にすまなかった。」
梓がそう言うと同級生は何か恐ろしいものを見たような顔になっていた。同級生は雪に頭を下げた後すぐにどこかへ去った。雪からはその表情は見えなかったが一体どんな顔をしていたのだろうか。
「ありがとう梓、私のために怒ってくれて。」
雪がそう言うと同時に梓は慌てたように抱きついていた手を離して距離をとった。さっき以上に赤面している。
「渡瀬さんにぶつかったのに悪びれなかったから少しカチンときたの。それより怪我はない?」
「うん、少しぶつかったくらいで怪我はないよ。それよりさっき梓はなんて言おうとしてたの?」
さっき同級生にぶつかったせいで雪は梓の言葉を聞いていなかった。
雪がもう一度尋ねると梓は誤魔化すように顔を逸らした。
「それはその・・・、なんでもないから!だから早く垣根さんの所に行こう?」
「何でもないって明らかに何か言いたそうにしてたじゃん。私なら何でも聞くよ?」
雪は明らかに何かを抱え込んでいそうな梓を見つめた。梓は優しくて大人しいから誰にも言わないまま抱え込みそうだ。だから雪はそんな梓を無視できなかった。
「本当に大丈夫だから。それより時間もないし早く行こう。」
その言葉に雪は不安で仕方がない。本当はこのまま梓を問い詰めたかったが今は梓の言う通りにすることにした。
「分かったよ。ただしもし何か嫌なことでもあれば私を頼って。」
「ふふっ、やっぱり渡瀬さんは優しいね。私は渡瀬さんと一緒にいれるだけ嬉しいから。」
雪はその言葉に深い安心感を覚える。雪も梓とずっと一緒にいたかった。
雪と梓は手を握ったまま急いで日向の元へ向かうのだった。




