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【1990年11月】

【1990年11月】


 神社の外周では「こもれび食堂」と「猫ハウス」になる予定の恒久施設の建築が進んでいる。沢渡家でのこども食堂的な活動は中断し、神社のプレハブ側に集約していた。俺は、晩御飯どきは手伝いに出ているが、毎日欠かさずというわけではない。今日は、桜庭さんが家に戻っていて手薄ということで、呼び出された状態だった。


「悠真さん、おつかれさまです」


 声をかけてきたのは、紗良ちゃんだった。制服にエプロン姿で、既にもてなし側の人数に数えられているようである。


「いやいや、紗良ちゃんこそ、おつかれさま。すまないね、本来なら、もてなされる側なのに」


「いいえ、悠真さんのおうちで過ごした時間は、私には宝物だったのです。他の子たちにもそう思ってほしくって」


「甘えてしまって、申し訳ない。……その点、自習王子はペースを崩さないね」


「本当に」


 くすくすと笑う少女の目線の先には、黙々と自習を続ける男の子の姿があった。


「しかし、自習王子とはうまいこと言ったもんだよな。……あれ? 名付け親の美羽ちゃんは今日は不在かな?」


「はい……。実は、ちょっと……」


 言い淀んだからなにかと思ったら、知り合いのところで、短時間の手伝い仕事をしているらしい。


「翠中は、アルバイトは確か……」


「禁止なんです」


 まあ、馬券を他人に頼んで買ってもらっていた俺が言えた筋ではないのだが……。


「美羽ちゃん、無理してないかな」


 紗良ちゃんが、小さく呟いた。


「本人は平気って言うんですけど……、そう言う時ほど、平気じゃないこともありますから」


「こっそり働きたいなら、うちで謝礼を出してもいいんだけどな」


「いえ、それは美羽ちゃんが嫌がると思います」


 少し寂しげな表情は、この子にはめずらしかった。


 と、彼女の注意がテレビに向けられた。流れていたCMは、開園したばかりのサンリオピューロランドのものだった。


「サンリオは、キャラが豊富だよなあ。紗良ちゃんも、行ってみたいとか?」


「いえ、そんな。贅沢なので……」


 杉森家には余裕がありそうなのだが、教育方針の問題だろうか? さらに言葉を重ねようとしたところで、声がかかった。


「悠真、こちらをお願いできますかしら?」


 険のある声からして、あちらはてんてこ舞いなのだろう。


「イエス、マム……」


 引き止めちゃってごめんなさい、と言われてしまっては、厨房に直行するしかなかった。


 今日のメニューは、魚の天ぷらとサラダ、ご飯に味噌汁だった。俺の担当は、挽き肉豚汁作りとなる。


 話を聞いて、手つかずなのかと思ったら、なんと野菜を刻んでいる人物がいた。ファンドマネージャーをやってもらっている夏目健吾の弟、康隆である。


「夏目じゃないか。ひさしぶり。……どうしてここに?」


「立ち寄ったら、エル様に連行されて……」


 エルリアが無理を言えるくらいには、距離が縮まっているのだろう。言いやすいキャラなのも間違いなさそうだ。


「すまんな。替わるよ」


「いや、無心で野菜に向き合うのもいいもんだから」


 笑みにやや力がないのは、野菜が種類ごとに積まれている量との兼ね合いだろうか。調味料を整えながら、包丁で野菜を刻み続ける旧知の人物に問い掛けを投げる。


「大学はどうよ」


 この人物は、武蔵小金井と国分寺の駅間にある東都経世大学に通っている。


「まあまあ、かな。……ただ、このまま就職して、どうやって生きていくのかな、なんて考えちゃうけど」


 既にバブル崩壊の話は聞こえているだろうが、まだニュースの中の話だろう。はっきりとした不況になって、就職戦線が土砂降りと評されるのは二年後である。そして、本格的に氷河期入りするのは、三年後……、つまり、この夏目康隆らの就職活動時期となる。


 久世や結菜の理系組は、修士へ進む比率が文系よりは高いし、就職活動の方式も違う。そう考えると、同期ではこの夏目辺りが心配対象となる。まあ、いざとなれば、うちに招いてしまうのもありなのだが。


「兄貴は、自力で海外の大学に進んでいて、すごいんだけどね」


 康隆は、切った大根を器に移しながら笑った。


「だから余計に、自分の平凡さが情けなくなる時はあるんだ」


「比べる必要はないだろ」


「わかってるんだけど、家の中にいると、なかなかね」


 そんな話をしながらも挽き肉を炒めて、野菜をレンジで短時間ずつ加熱していく。肉からの脂で野菜を炒めて、水と調味料、だしを投入し、沸騰したら少し煮込んで味噌を溶かせば、挽き肉豚汁の完成である。


 その間に、他の準備も整ったようで、配膳が始まる。夕食をここで済ませる子どもは増えてきており、よろこばしい状態だった。


 こもれび食堂で困窮度合いを食事の無償提供の条件としていないのは、紗良ちゃんが利用してきたところからも明らかである。余裕のある家庭の子が食費を浮かせるために利用したとしても、それはそれで問題ないというのが現状の整理となっていた。


 とりあえず六人分を提供したところで、エルリアが声をかけてきた。


「まったく……。手が足りないから、呼びましたのに」


 どうやら、紗良ちゃんと話していて、厨房に直行しなかった件についてのお小言であるようだ。


「すまんな」


「トミさんが少し調子が悪いようで、休んでもらっているのです」


「そうだったのか。だいじょうぶそうか?」


「大事はなさそうですが、やはり毎日となるときついのかもしれません」


「俺も、なるべく入るようにするよ。……ところで、紗良ちゃんが、サンリオピューロランドに興味を示していたよ」


「あら、紗良ちゃんもでしたか。梨乃さんが行きたがっていましたよ」


 桜庭さんは、ぬいぐるみ好きなだけに、キャラクターが闊歩する世界観は好物なのだろう。いや、サンリオのキャラとぬいぐるみに類似性があるわけではないが。


「それなら、美羽ちゃんも含めて招待しようか。日頃のお手伝いへの感謝も込めて」


「そうですね……、三人で行ってきてもらいましょう」


「いや、エルリアも行ってこいよ」


「ですから、トミさんが体調不良で……」


「久世や瑠夏に援軍を頼めば、どうにかなるって」


「それは、そうかもしれませんが……」


 やや不満に近い雰囲気をまとわせているのは、自分の領域が荒らされそうな感覚を抱いているのだろうか。


「なんにしても、ぼくらも食事を済ませちゃおうか。……夏目も食べていくよな?」


「いや……、帰れば晩御飯があるから。母さんがちょっと不安定でね」


「そっか……。味見程度なら、付き合えるか?」


「うん、それならぜひ」


 ほんわりと笑うこの人物にも、やはり苦労はあるようだ。兄である夏目健吾の動向が、家庭内の空気を悪くしているのだろうか。だとしたら、俺も一因であるのかもしれない。


「この食材は、どこで確保してるんだい?」


「野菜なんかは、近所の農家の人が持ってきてくれているものが多いかな」


「この辺り、畑は意外と残ってるもんね」


「ああ。市場に出荷もしていても、規格外の野菜は扱いづらいらしくてね。あとは、肉屋や魚屋から余り物なんかを提供してもらってる」


「みんな協力的なんだね」


「沢渡家の個人活動だったのが、神社が運営しているていになったから、信頼性が高まった感じなのかな。もちろん、ばあちゃんとエルリアの地道な努力が実を結んだ面が大きいにしても」


 話題に出た金髪碧眼の人物は、母親の買い物の間に預けられた三歳くらいの女の子となにごとか対話をしていた。どうやら、おもちゃを選ぶ相談であるようだ。


 この人物は、元の世界では公爵令嬢だったと聞いている。イメージする通りの貴族階級で育ったのなら、我が子の世話も使用人任せだったと思われ、子どもに触れる機会は多くなかっただろう。


「なんですの?」


 眺めていたのに気づいて、やや剣呑な視線を向けてくる。


「いや、穏やかな空間が作れてよかったな、と」


「裏側はばたばたですけれど」


「それもまた、尊いんだろう」


「わたくしは……、でも、トミさんの行いを手助けしているだけです」


 最初のきっかけはそうだったかもしれないが、現状はこの活動の主役はエルリアである。ただ、そう言明しても、受け容れてはくれないだろう。


 子どもたちが幾人か入れ替わり、断続的に食事が供され、挽き肉豚汁の残量が心許なくなったタイミングで扉が開いた。顔を覗かせたのは久世だった。


「よお、今日は二人も男手がいたのか」


 この施設は、午後六時頃から帰宅を促し、七時で閉めるのを基本としている。帰りたがらない子どもがいて、その子が男の子だったりすると、エルリア、ばあちゃん、桜庭さんでは対応に苦労する場面が想定されるため、男子陣は余裕があれば寄ってくれているのだった。


「うん。めずらしく」


「ごめん、僕はそろそろ帰らないと」


 夏目康隆は、そう言って帰り支度を始めている。


「今日は助かったよ」


「ん。夕方に寄れる日はあるから、また顔を出すよ。久しぶりに無心に野菜が刻めて楽しかった」


 自宅では、料理はしないのかもしれない。


「無理のない範囲で頼むよ」


「ピューロランド遠足の日が決まったら、都合をつけられるようにがんばってみるから」


「サンリオピューロランドに行くのか?」


「紗良ちゃんと美羽ちゃんを、エルリアと桜庭さんで連れて行く計画が動き出しているんだ」


「それはいいな。あの二人は、だいぶここに貢献してくれているし」


 久世からもそう見えているからには、二人に支えられた活動なのは間違いないのだろう。



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