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【1990年5月】


【1990年5月】


 ゴールデンウィーク初日の昼下がり、武蔵小金井駅北口の雑居ビル「カストルム小金井」の二階の一室には、埃っぽい空気が満ちていた。


 元は事務所として使われていたらしい部屋だが、今は机と棚がいくつか残っているだけで、がらんとした空間になっている。いい機会だと片付けをしていたら、何人かが合流して、いつのまにか大掃除に発展していた。


 窓を開けると、子どものはしゃぐ声と、風向きのせいか、いつもは聞こえない踏切の警報音が流れ込んできた。


「思ったより広いな」


 そう言ったのはコンセント周りを確認していた久世だった。床に置いた工具箱を足元に寄せながら、部屋を見回している。


「会社の事務所だったみたいだから、それなりに広いだろ」


 俺がそう返すと、窓際で外を眺めていた瑠夏がニヤリと笑った。


「秘密基地にはちょうどいい感じじゃない?」


 その言い方に、早乙女航が苦笑する。


「そう言っちゃうと、高校のクラブ活動みたいに聞こえるぞ」


「所属はバラバラだから、謎の集団の拠点かな。あるいはアジトか」


 まあ、今のところはアジトというより、ただの空き部屋だ。壁際に古い机が三つほどと棚が残されている以外は、ほとんど何もない。


「とりあえず掃除しちゃおう」


 結菜が買ってきた雑巾をバケツに浸した。床の様子を一通り見回すと、しゃがみ込んで床板の継ぎ目を指でなぞる。


「この建物、思ったよりしっかりしてるね」


「そうなのか?」


「うん。頑丈な造りな上に、わりと修繕もされているみたい」


 言いながら、結菜は棚の歪みに気づいたらしく、ポケットからドライバーを取り出してネジを締め始めた。工具を持たせると、自然と手が動くのだろう。


「さすが工学部」


 航が感心したように言う。


「ただの性分よ」


 結菜の淡々とした口調には、嫌がっている様子はない。


 実際に掃除をしてみると、かつての利用者の汚れが残っているわけではなく、空き部屋だった期間に積もったものだったようだ。埃を払って床を掃き、机を再配置するとだいぶ整理された状態となった。


「ここに物を置いてもいいんだよな?」


 久世の質問に、俺が応じる。


「三浦社長は好きに使えって言ってくれてる。まあ、大きな物じゃなければ問題ないだろう」


「じゃあ、ノートを置こう」


 瑠夏が突然そう言った。


「ノート?」


「伝言用。部活でもそうしてたんだ」


 彼女は鞄から飾り気のない大学ノートを取り出して、机の上に置いた。


「学校と違って、毎日来るわけじゃないから、連絡を取り合う感じで」


「確かに、それは便利だな。事務連絡的な交換日記ってとこか」


 頷いた久世が、ノートを手に取った。この時代、携帯電話は一般向けには存在していない。ポケベルが流行るのはもう少し先で、連絡手段としては家に電話するしかなかった。大学に進んだ連中は授業時間もばらばらだし、そもそも理系組は自由時間がごく少ない。


 久世が取り出したボールペンで、最初のページに大きく書いた。カストルム連絡帳、と。


「そのまんま過ぎますって」


 航が笑いながらコメントする。西城高校時代は、久世との接点はあまりなかったはずだが、この人物は人の懐に入るのがうまい。


「奇をてらってもしょうがないだろう」


 と、ノートとペンをひったくった瑠夏が、次のページの最初の行に書き込んだ。


 1990年5月3日 雨宮瑠夏が端緒となる。


「なんだそれ」


「記念にね」


 久世と結菜は苦笑している。二行目を記すのは誰になるのだろう。


 そこで、廊下の方から物音がした。扉が開かれ、顔を出したのはプレイタウン・フラッシュの三浦社長だった。


「お、若人が集まってるなあ」


「勝手にすみません」


「いいっていいって。どうせ空き部屋だったんだし。さて、入れちゃうか」


 そう言って社長は、廊下にあった段ボール箱に手をかけた。慌てて手伝いに向かうと、運び込まれたのは小型の冷蔵庫だった。


「いいんですか?」


「上の階で使ってた備品なんだ。問題なく動くから」


 部屋の隅に置かれると、結菜がすぐに電源コードを確認する。コンセントにプラグを差し込んでスイッチを入れると、低いモーター音が部屋に響いた。


「文明だなあ」


 航の大げさな言葉に、笑声がこぼれた。


「これからの暑い時期には、重宝しそうだな。コップも用意するか」


「給湯室も共用だから、自由に使っていいから。掃除は、フラッシュのスタッフがしてるし」


 確かに、給湯室を含めた二階の掃除も、俺の業務に入っていた。


「まあ、ずっと使えるかどうかは分からないけど、当面はだいじょうぶだと思うから。派手になりすぎないように、楽しんでね」


 三浦社長は、ひらひらと手を振ってその場を離れた。


「じゃあ、とりあえずアイスでも買ってくるか」


「いいねえ。戻る頃には、庫内も冷えてるだろうし。あとは、おやつも買ってこよう」


 武蔵小金井の北口でアイスを入手するとしたら、西友と長崎屋の地下にある東急ストアの二択になる。俺たちは買い出しに向かうことにした。


 準備をしながら、航が問いを投げてきた。


「使ってないCDラジカセがあるんですけど、持ってきていいですかね?」


「かまわんぞ。どんな歌を聞くんだ」


「アニメのサントラが多いですね」


「いい趣味だねえ。悠真は中島みゆきだっけ?」


「ファンなのは確かだが、他の歌も普通に聞くぞ。アニソンもいいものだよな」


「だなあ。GetWildとかもいいよなあ」


 同意する久世も、伸びのあるいい声をしている。この時代、アニメは市民権を得ているとは評し難い状態にある。その傾向は、前年の幼女連続殺害事件での、犯人がアニメファン、いわゆるオタクだったとされたことからのメディアでのバッシングによって強まったと言えるだろう。ただ、少なくともこの場の面々の中には、それを理由にしたアニメというジャンルへの徹底否定派は見当たらなかった。


「ところで、ここの電源容量はどれくらいかな?」


 結菜のなにげない質問に、俺は危険な気配を感じ取った。


「なにを持ち込む気だ?」


「まだ、なにも」


 物騒な物が持ち込まれないように、警戒はしておいた方がよさそうだった。


 箱アイスや菓子を買って戻る途中で、美羽ちゃんと紗良ちゃんに出くわした。二人は掃除の手伝いに来てくれたそうで、皆でアイスを食べる展開になった。


 ばあちゃんとエルリアにも、アイスを買って帰るとしよう。



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