【1990年4月】
【1990年4月上旬】
「トミさんが心配なさってるわ」
エルリアからそう聞かされたのは、小金井公園からの帰り道だった。桜の花びらが舞い散る中で、彼女の表情はいつになく硬く、いつもよりも美しさが際立った。
「わたくしは、高校の卒業後はこもれび食堂で活動を続けます。その選択は、トミさんを安心させたようです。悠真は、どうするのです?」
冷静な表情で、まっすぐに見据えられた。好きに過ごすのはかまわないが、ばあちゃんを安心させろという趣旨なのだろう。
ばあちゃんは俺に対しては明るく振る舞っていたので、その懸念に気づくことができなかったわけだ。エルリアの方が、より深く気持ちを見ていたのだろう。
……ともあれ、勧告は受け容れることにした。
実際には、俺は有限会社沢渡商会の事実上の経営者である。会社としての累積利益も、既に億単位に達している。生活資金確保の心配という観点では、問題はない。ただ、それは株式投資での収益であり、ばあちゃんの実感の外にある話なのだろう。
とりあえず働き口を、と考えた俺が選択したのは、馴染み深い「プレイタウン・フラッシュ」だった。
社長に正直に状況を説明したところ、ちょうど手薄だった早番だけの勤務を提案された。そーちゃんこと天川颯一郎が、遅番に回りたいのだそうだ。朝からの出勤で、午後は早めに解放されるため、理想的な状態である。
朝一番のゲーセンの空気感は、新鮮なものだった。開店直後の店内はまだ人の気配が薄く、ゲームの音だけが賑やかに響いている。やがて客がぽつりぽつりと入ってくる所作もまた、午後の混雑した時間帯とはまったく違っていた。
不登校らしき中学生もいれば、わりと年配の客人もいる。決まった筐体で一ゲームだけやっていく人などは、生活のリズムに組み込まれているのだろう。一方で、単純に一休みする場所として利用する人も見受けられた。
フラッシュを経営する三浦社長は気のいい人物で、面談の際には、いずれ閉店することになりそうだとの話をされた。再開発計画の絡みだそうだが、バブルの狂乱に参加しているようには見えなかった。
俺にとってのバブル景気への対応は、昨年末の大納会での株式を売り抜けたことで落着している。NTT株での一点勝負と、その後の不動産と証券中心の個別株で、利益は税引き前で十二億ほど、税引き後で六億超となる見込みである。
日本株の取引は、これでしばらくお休みとなる。ここから当分の間は、アメリカ株投資に全振りする予定だった。
頼みの夏目健吾は、シンガポールで大学の三年まで進んでおり、在学中ながらファンドマネージャー的な業務を担ってくれることになっている。
当初は、付き合いのある多摩証券に継続して扱ってもらおうとしたのだが、地場の零細証券だけに、外国株の対応はギブアップされてしまった。
健吾に打診したところ、米国株を運用しているマレーシア出身の級友がいるそうで、アメリカ本土の証券会社を紹介してもらえるという。日本の証券会社でも、大手なら対応してくれたのかもしれないが、今後は業界全体がバブル崩壊後の混乱で揺れ動くはずだし、直接の方がよい面もある。
アメリカ株の銘柄としては、早春に上場したばかりのシスコシステムズを中心に、マイクロソフト、インテル、デルといった辺りをリクエストしている。資金としては、神社の残り代金の一億五千万円と、武蔵信金からの借入分対応も含めた一億円を手元に置いて、残りの九億円を投入する想定だ。
一方で、九十年代の半ばには、ある程度現金化もしていきたいとも伝えている。1997年には、大きな仕掛けどころになりそうな銘柄がある。
アメリカ株への投資に先立って、西園寺法律事務所の利音嬢に相談して、グループ会社的な傘下企業を五つ作ってもらった。沢渡企画がそれらの法人の株式を持ち、資金を分散する形となる。その各会社の資産を、夏目健吾に運用してもらう想定だった。
創始会方面の資金は、一部は健吾に任せて海外株に向かっているようだ。ただし、俺が繰り返し言明している不動産価格の下落を見込んで、値下がりした不動産の確保も並行して目指しているとも聞く。
元々は、長野の植田市に根を張る地場の組織のはずだが、いつの間にかファンド的な動きが中心になっているように見受けられる。それもあって、鳴海さんが引き続き小金井に常駐している状態なのか。
【1990年4月下旬】
新たな生活も、だいぶリズムが安定してきた。
俺の職場である「プレイタウン・フラッシュ」の入っている雑居ビル「カストルム小金井」の二階は、事務所フロアになっている。一、二階フロアはフラッシュの三浦社長が確保している状態だそうだ。
二階のゲーセン事務室以外は、かつてはよその会社に貸していたのだが、今は空き部屋状態とのことで、厚意でそこを作業場所として使わせてもらっている。いっそ、沢渡商会で正式に借りようかとの話を持ちかけたのだが、いつ明け渡すかわからないから、その必要はないと言われている。ここは素直に甘えるとしよう。
カストルム小金井は、三階、四階を含む残りの建物全体は別のオーナーの持ち物で、共同所有のような状態とのことだ。先方は、隣の住宅と駐車場を買い取って、テナント付きオフィスビルに建て替えようとの計画を進めているらしい。そのため、フラッシュにはひとまずの立ち退きを求めているらしい。完成すれば、一部区域の配分はあるにしても。
三階、四階に入っているテナントにも、退去要請が出ているらしい。バブルが弾けそうなこのご時世で、その計画はどう転ぶだろうか。
なんにしても、作業場所が確保できた結果として、高校三年になった雨宮瑠夏と早乙女航が毎日のように顔を出すようになっている。なんだかんだで中学時代から交流のある瑠夏はともかく、早乙女の方と卒業後も関係性が続くというのは、やや意外な展開だった。
大学進学組では、東都工農大の小金井キャンパスに通う久世湊と島崎結菜も、交流が続いている。さすがに理系だけに頻度は低いが、そこそこのペースで訪れていた。この時代、未だSNSも携帯電話すら普及していない。行き違いになることは多いが、それでも別々の大学に通っているにしては、会える可能性はだいぶ高かった。また、ノートでの伝言も頻繁に行われていた。
帰りに追加の食材を購入して家に戻ると、ばあちゃんとエルリアが台所で料理に取り掛かっていた。沢渡邸は、相変わらず近所の子らの学童保育所か児童館のような状態となっている。龍栖神社に設置しようとしている施設は、まだ準備が整っていない。
常連組のうちの杉森紗良嬢と松本美羽嬢の二人は、ごく近所の小金井翠中の三年生に上がっており、放課後にここで小さな子どもたちの世話をする状態になっていた。それもいかがなものかと思うが、自分の勉強をしながら、年少の子の遊び相手になったり、宿題をやるように促したりしている姿は微笑ましい。
自習男子も引き続きやってきていて、主に彼のための参考書棚は、さらに発展していた。これまでは久世と夏目兄弟のお古くらいだったのが、他の面々も提供してくれるようになっていた。また、質問ノートも配備されて、各分野を得意とする面々が対応している。
応接間に入ると、イヤホンを外した桜庭梨乃さんが会釈をしてきた。彼女は放送大学で勉強しながら、こもれび食堂を手伝ってくれている。深い事情は知らないが、自宅には居づらいらしく、ほぼ沢渡家に常駐する状態になっている。そのお陰で、午前中には母子連れなどの対応もできるようになっていた。
そして、ミケが四匹の仔猫を育てている。エルリアはミケのことをシャルロットと呼んでいるが、さすがに仔猫を別の名前で呼び分けるわけにはいかず、相談の末に名前が決められた。
雌二匹のうちの黒猫はクロ、三毛猫はリリィと。茶トラの雄二匹はアマナツ、イヨカンと名付けられ、元気に成長している。マイペースで子育てに励むミケには、だいぶ貫禄がついてきていた。




