【1985年5月中旬】
ゴールデンウィークも終わり、風がやや湿り気を帯びてきたある日の午後。
掃除のためにと応接室を訪れると、エルリアは椅子に姿勢正しく腰掛けていた。窓を開け、軽めの掃除を済ませると、問い掛けが発せられた。
「わたくしは、いつまでここにいてよいのでしょうか?」
「それは、俺ではなくばあちゃんの判断になるけど……、基本的には、このままいてくれてだいじょうぶなはずだよ。行く当てのない女性を追い出しはしないと思うから」
「ですけど、わたくし、本当に何の役にも立てていないのですけれど」
「世界を跨いでやって来たんだ。少しくらい休んだって、誰も文句は言わないって」
正直な話、植田時代に登場されていたら、だいぶきつい展開となっていただろう。だが、現状であれば、二、三人分が三、四人分になる分にはさほどの影響はない。
母親は生活費を入れているのだろうか? まあ、状況によってはバイトをすれば問題ない。高校まで含めても二周目だし、勉強に打ち込む必要もないだろう。大学進学は……、ちょっと意義が見出だせなくなっているのも確かだった。
「わたくしは、何を求めて生きていけば……」
その小さな呟きが、俺に向けられたものではないのは明白だったので、聞こえなかったていで退出させてもらった。なんのために生きるべきか。それは、俺としても考えていくべき問いだった。
その日の夕方、にこやかな表情のばあちゃんが話してくれたところによると、エルリア嬢が改めてあいさつに赴いたらしい。
なにか用を言いつけて欲しいとのリクエストがあったので、話し相手になってくれるとうれしいと応じたそうだ。意気込んでの申し出だったとしたら、予想外の反応に驚いたかもしれない。
「香澄みたいなキツさがあるのかと思っていたんだけど、話してみると可愛らしい子ね」
「母さんは……、だいぶ反抗的だった感じ?」
「そうねえ、あの子は父さんとだいぶぶつかっていたのよ。あたしも、今にして思えばちょっときつくしちゃったのかも」
俺に対してはだいぶ甘い対応なのだが、子どもと孫ではやはり感覚が違うのだろう。あるいは、反省を踏まえているのか。
「エルリアちゃんは、学校に行かなくていいのかしら。その辺りは、悠真に任せてもいいの?」
「考えていることはあるから、少し待ってもらえるかな」
「ええ、わかったわ」
本人は十四才だと申告しているが、記録がないのを逆手に取って中学は卒業済みだと言い張れば、どう転んでも学校の話はやり過ごせる。ただ、彼女のこの世界での人生を考えると、馴化のために学校生活を体験する意味合いは大きそうでもあった。
この時代に出現した悪役令嬢は、どういう役割を担うべきなのだろうか? 女神の気まぐれで放り込まれたのだとしたら、同情すべき状況である。
まあ、そのあたりも含めての本人の選択を尊重するとしよう。
そして、このタイミングで男女雇用機会均等法が成立した。前世での記憶からすれば、むしろ前提条件に思えるため、まだ存在しないとは思っていなかった。
制度としては前向きなものだったのだろう。ただ……、実際には、ここで促進された女性の社会進出と、後の保育所不足、若年層の生活苦を放置しての少子化進展、さらには第三号被保険者制度との絡みもあって、ちぐはぐな政策が続いていく。
それでも、流れは変えられない。そして、バブル崩壊も避けられないとしても、その後の処理が適切に行われ、成長が実現していれば、全てが解消されていたのかもしれない。実際は、いわゆる失われた三十年へ進む流れの中で、閉塞感が充満する形となる。
ただ、その流れを俺が変えられるとも思えない。未来知識を利用して多少の金を稼げたとして……。そこまでだろうか。関わりのある少数の生活を改善できたのなら、それだけで大戦果とするべきなのかもしれない。
エルリアの生き方についても考えるべきだが、まずは俺の方向性を定めるべきなのだろう。
翠中の教室での授業を、俺は考え事をしながら聞いている場合が多い。さすがに中学での授業内容をすべて覚えているはずもないが、それでも二周目だけあって、理解に苦しむ場面はさほどない。
意識を半ば外して聞き流していると、教師の発言の矛盾点や誤りが逆に把握しやすくなってくる。ただ、指摘する必要もないので身じろぎする程度なのだが……、そのタイミングで周囲を見回すと、近いタイミングで反応している生徒がいた。
単に教師の言うことをそのまま把握するとの観点なら、より優秀な人物はいそうである。だが、大筋との違いを理解して疑問を抱くのは、把握力が高くなくてはできない話となる。
俺自身は学力がずば抜けて高いわけではないが、それでも二周目であるからには見抜けることが多いのは間違いないだろう。初見で同様の水準であるのだとしたら、その面での能力は傑出していそうだった。
この四月に中学二年次から転入した、他者との交流をあまり持っていない俺が、クラスメイトの氏名を特定できる場面はあまり多くない。出席を取る教師もいないし、席替えした後の座席表が配られるわけでもない。入学直後なら、また対応も違ったのかもしれないが。
名前を把握したいなと思っていながら果たせずにいると、ある時に漢文の教師が気まぐれに出席簿を手にして一問一答の対象を指名し始めた。注目している同級生が返事をしたのは、「くぜ」と呼ばれたタイミングだった。




