【1985年5月19日】
先触れ通りに、日曜の午前に見覚えのある車が通りに停車した。かつて俺が植田を出るときに乗せられた国産のセダンの運転席から、ヤスさんと呼ばれていた若者が降りてきて、後部座席の扉を開く。出てきたのは、神後の親分だった。
任侠の有力者でも、派手な黒塗りの車を常用しているわけではないのか。想像していたよりも、規模の小さな組織なのかもしれない。そして、他にもう一人乗っていたようだ。
「よう。……話は聞いている。まずは顔を見に来たわけだが」
どこか芝居がかった声音と間合いに、俺は思わず口元を緩めた。
「ようこそお越しいただきまして。遠方までお運びありがとうございます。まずは、こちらへ」
「ふ……、如才ないな」
ばあちゃんには、事情を軽めに話してある。植田時代の母と、それと父とも関係する人物だと伝えたことで、素性は察せられたようだ。
片付けた応接室へ案内すると、腰掛けていた和服姿のばあちゃんが頭を下げる。
「腰を悪うしておりまして、座ったままで失礼いたします。悠真の祖母にして、香澄の母、沢渡トミと申します」
「神後宗次郎と申します。……うちの者が、ご迷惑をおかけしたようで」
「いえ、男女のことでもありますし。この度は、わざわざ足をお運びいただき、ありがとうございます」
和やかとも、緊張とも言いがたい間のやりとりだが、互いに尊重し合っている気配は感じられた。
「悠真が、頼み事をしたと聞いておりますが」
「その話もありますが、実は小金井は一度訪れてみたかったのです」
「それは、どうしてかお聞きしても?」
俺の問いに、親分はにやりと笑みを漏らした。
「先代の頃に縁があったそうでな」
「縁?」
「ああ。小金井出身の博徒の、舎弟をしていた時期があったらしい」
「へー」
「まあ、それはついででしかない。坊主の暮らし向きを確認したかったってのもあった。……落ち着いているようだな。表情から、だいぶ険が抜けている」
顔を撫でてみたが、自分では実感できない。
「いや、造形は変わってないだろうて。いい縁に恵まれているのさ。なによりなことだ」
「そういうもんかなあ」
「おそらくな。……それで、その金髪のお嬢さんは、ご在宅かな?」
「うん。呼んでくるよ」
俺は、居間で待機しているエルリアに声をかけるために廊下へと出た。
連れてきて、応接室へと迎え入れる。
「エルリア=リンドラントと申します」
「神後宗次郎だ」
互いに名乗りを交わしたきり、沈黙が流れた。一見、無表情に見えるのだが、空気がびりびりと震えるような感覚に陥る。
ふっと笑ったのは、親分の方だった。
「いやー、肝の据わったお嬢さんだ。……で、外国人登録もなければ、日本人としての戸籍も住民票もないわけだよな」
「はい。祖国からの取り寄せも、不可能と考えていただくしかない状態です」
「出身はどこなんだ?」
「わからない……、というか、どこの国にも出生の記録はないようです」
「お嬢さん、そうなのか?」
「ええ。悠真の言うとおりですの」
「ふむ……。正直、得意な分野ではないが、調整しよう。時間はかかると思う」
「感謝します。……どうすればこの恩義をお返しできるか、思いつかないのですが」
神後の親分は、真剣な表情でこちらを見据えてきた。
「悠真よ。お前さんの苦境は、うちの者の不始末が招いている。対価なんか気にするな。恩義を感じる必要もない。強いて言うなら、恩義を感じないことが対価だな」
「それはあまりに恩知らずの振る舞いです」
「坊主にとっても、どこの者とも知れぬ存在なんだろ? なら、いよいよ気にするな」
「いえ……」
既に、見知らぬ存在というわけでもなくなっているし、女神の被害者同士という縁もある。ただ、俺の側から関係性を確定させるのもためらわれるところだった。
他に困ったことは無いかと聞かれたので、今日の馬券を買ってもらえないかと頼む。この日は、東京競馬場でオークスが開催される。小金井のこの辺りからなら、車でほぼ直線で南下すれば、府中にある東京競馬場に到達する。
同行者と相談した親分は、ヤスさんに馬券を購入してくるようにと指示した。この若者は、母親と住んでいたぼろアパートから、植田駅まで車で送ってくれた人物である。
預けた金額は一万円となる。前年から翁敬義塾大学の創始者の紙幣が流通しているが、手渡したのは聖徳太子の絵柄があしらわれた旧券だった。
ならば一緒に見ようかとの話になり、昼食を経て居間での競馬観戦となった。昼食を供する予定はなかったので、夕食向けに確保していた鶏肉を使っての、鶏天丼を出している。幸いなことに好評だった。
「単勝は下から数えたほうが早い人気順でしたぜ」
「オッズはどうでした?」
「60倍くらいだったな」
そこで、エルリアは不思議そうな声を出した。
「競馬とは、馬の優勝者が掛け金を総取りにするものですよね。悠真は、馬を持っているのですか?」
「いや、馬の所有者以外が、どの馬が勝つかを賭けて、的中したもので分け合う感じだな」
「それは、賭博ではないですか」
「賭博だなあ。胴元は国だなあ」
厳密には、農水省傘下の団体の主催だが、まあ、丸めて言えば国の所業である。
「それで、どうしてこの馬なんだ」
「なんとなく、ですね。ちょっと検証したいことがあって、せっかくなので仕掛けようかと」
「ほほう」
さすがに大穴すぎるので、本気ではないと判定されたようだ。神後の親分とばあちゃんとで話がある程度弾んでいるようなのは何よりである。
そして、ファンファーレがテレビから流れた。
「後方だな」
「ですねー。ヤスさんは買わなかったんですか?」
「買わなかった。ノミ屋を担当しているから、逆にあまり興味がなくてな」
「そういうもんですか。……馬名も呼ばれませんね」
「最後方だからな。映像にもなかなか映らん」
「いや、だからって」
「実況も、せいぜい半分くらいしか触れないんじゃないか?」
数えたことはないけど、そうかもしれない。この映像、初見ではないはずだが、もちろん明瞭に覚えているわけではない。児童養護施設の事務室で、競馬好きの職員のお供で眺めるのが、この頃の日曜午後の過ごし方だった。
懐かしいあの施設に向かえば、前世の俺がいるのだろうか? まあ、覗きに行ったなら、女神の禁則事項違反でこの世界から弾き出されかねないのだが。
「大外だなあ」
ようやくカメラがノアノハコブネの姿を映し出した。最後方から大外に持ち出したので、かなりのロスとなっていた。
「まあ、すごく速く走るのねえ」
ばあちゃんの感想は、牧歌的である。確かに、向正面の遠方を走っていた時間が長かったので。だいぶ速度を上げたように感じられる。
「ただ、脚色はいいな」
親分のコメントには、玄人っぽさが感じられる。
「これ、追い上げてるよな。……お、おおっ」
ヤスさんはそこから、差せーっと叫び、それぞれが驚きや応援の声を発しだした。ブラウン管の中では、大外からノアノハコブネが綺麗に差し切って、突き放したところでゴール板を通過していった。
はしゃぐヤスさんに肩を抱かれながら俺は喜ぶというよりは安堵していた。一万円は、これで六十万円余りに化けたわけだ。それ自体も喜ばしいが、このような紛れのありそうな事柄でも、未来知識が有効だったのは今後を考えたときに大きい。
画面に映った配当を確認したところで、俺は神後の親分がこちらを観察しているようであるのに気がついて、意識してほにゃっとした笑みを浮かべた。
「いやー、びっくりしました。思わぬ収入となりました」
「何に使うのかは、決めているのか? 必要なら、払い戻しをしてこさせるが」
「差し支えなければ、今後も競馬でたまに勝負したいので、ヤスさんにお預けして、ノミ屋での元手に回してもらえないでしょうか」
「それは構わんが……」
「ただ、買うとしたら、今後も穴になると思います。ノミ屋は、確か実際の馬券は買わない場合もあるんですよね。GI限定として、金曜には確定させますので、実際の馬券を買ってほしいのです」
「それは、ただのお使いだな。控除率はそのままになるが」
「かまいません。むしろ、一部をお渡しします。払い戻しから、一割抜いてもらう感じでどうでしょう」
「ヤスよ。対応できそうか」
「ええ、問題ありません。連絡はこちらへ」
渡された名刺には、ノミ屋への発注用の専用番号が印刷されていた。
送り出そうというときに、神後の親分が立ち止まって、俺を見つめてきた。
「鬼塚の奴の行方が掴めておらん。出身地の九州に向かったという話もあるが、定かではない。何を考えておるのか……。すまんが、創始会にこの小金井や香澄の立ち回り先に手を回す余力はない。危険を感じたら、一時的にでも植田に来てくれ」
「ありがとうございます」
俺がちらりとばあちゃんに視線を向けたのを、親分は感じ取ったようだった。
「こういう事態になると、力が足りないのを感じるな」
「任侠組織は、大きな力を持っているものかと思っていました」
「創始会は、テキ屋起源の組織だからな。植田の歓楽街周りと、植田競馬関連、それに地場の働きに多少、といったところだ。しばらく前の映画の……、セーラー服のヤクザ映画があったろう。そこに出てきた組ほどは小さくないが」
「関東目高組でしたか」
「ああ、そうだったな。メダカほど小さくはないが、鮎程度かもしれん。女子高生を組長に据えることはなかろうがな」
親分が言及した映画の「セーラー服と機関銃」では、薬師丸ひろ子が機関銃でヘロインの入った瓶を並べて掃射していた。
「……他には、手助けが欲しいことはないか」
「では……、もう一つ、甘えさせてもらっていいですか?」
そう告げたら、沈黙を守っていた人物……、名前だけ鳴海忠治と紹介されていた人物の眼光がすっと鋭くなった。調子に乗るな、というところか。俺は自重せず、要望を伝達することにした。
「俺の暮らしていたアパートに、母親と同じ店で働いていたクラリッサが住んでいました。その娘さんのエレナが、今年から小学校なんだけど、日本語を教えてる途中でこっちに来る羽目になってしまったのです。できれば、少しだけ気にかけてあげてもらえるとうれしいです」
「……坊主、お前は本当に他者のことばっかりだな」
そうして俺は、苦笑している任侠の親分に、髪をわしゃわしゃとされたのだった。




