【1985年5月上旬】その2
客人には、とりあえず応接間に入ってもらった。八畳間の壁には淡い色合いの壁紙が貼られ、棚の上には昭和感漂う置き時計と、幾つかのガラス細工の置物、それに二時間サスペンスの凶器になりそうな灰皿が配されている。
エルリアは、簡素な応接セットのソファーの中央にちょこんと座っていた。背筋は伸ばされ、まるで儀礼の場に臨むような姿勢だったが、視線は泳いでおり、明らかに落ち着きはない。
「とりあえず、お風呂に入って着替えた方がいい。……公爵令嬢なんだっけ? ここには侍女なんて居ないんだけど、一人で着替えられるかい?」
「ええ。……牢には、侍女はおりませんでしたから」
想像通りに断罪後の処刑であるなら、最期の瞬間までは苦痛に満ちた期間だったのかもしれない。ゲーム世界の絵空事だと思われるのだが、眼前にいるこの少女はどうやら実在である。となれば、その苦痛もまた真実のものだったのだろう。
「バスタオルとパジャマはこれ。サイズは……、まあ、ひとまずは妥協してくれ」
そう告げると、彼女はわずかに目を伏せ、小さく頷いた。
「……お言葉に甘えさせていただきますわ」
やがて風呂から上がった彼女は、応接間に直行した。状況の整理をしたいのだろうと考えて、廊下に食事を置いておく旨を扉越しに伝えて、自由に過ごしてもらうことにした。
「ばあちゃん……、どうやら、あの子は」
ためらいながらの俺の言葉に、あっさりと首が振られた。
「いいのよ。なにか事情があるんでしょう? 一人増えるくらい、どうとでもなるわ。困ったときは、お互い様だもの。でも、食事はあれで足りるかしら」
用意したのは、おにぎりと挽き肉豚汁、それに名残の時期のいちごだった。
「ちょっと、味覚が……、いや、好き嫌いがわからなかったので。それに、あまり派手にしても、警戒されそうだし」
「そうかしら。悠真の料理は優しい味だから、だいじょうぶだと思うんだけどねえ」
急に距離を詰めすぎては逃げられだろうことは、野良猫との交流になぞらえれば推測できる。迷子のような存在を手懐けてどうにかしよう、なんて考えているわけではない。
ただ、あの女神の口ぶりを思い出すと、この人物は、俺と噛み合わせるためにこの世界に出現させられた、ゲーム世界のキャラクターなのだろう。そうであるなら、こちらには係累が存在しない可能性が高そうだ。放りだして、野垂れ死にでもされては寝覚めが悪い。
「とりあえず、あたしたちもご飯にしましょう。せっかく悠真が作ってくれた料理が冷めちゃう」
「うん。すぐ準備するね」
本日の晩餐は、鯖の味噌煮と冷奴、それに挽き肉豚汁である。鯖の味噌煮はばあちゃんの指導の下で調理したので、おそらくうまくできているはずだ。
準備を整えて鯖をつっつき、箸で口に運ぶ。旨味と甘味とが広がるのは、とてもいい味わいだった。
それから数日、エルリア嬢はほぼ応接室に籠もる状態で過ごしていた。本来だと、部屋をあてがって寝床を準備したかったのだが、来客用ソファーに毛布を配備する状態となっている。
まあ、心の整理がつかないのは無理もない。俺は、転生者だとの自覚を抱いたのは幼児のときで、そこから現実世界と前世記憶との折り合いをつけられた。しかも、過去であるだけで見知った世界だったわけだから、また話は違うのである。
初夏の爽やかな風が、小金井公園からなのだろう、草の香りを運んできている。その感覚を楽しみながら洗濯物を干していたところで、チャイムの電子音が耳に届いた。
縁側から洋間を横切ると、ばあちゃんが立ち上がろうとしていたので、手を上げて制する。すまないねえ、との声が聞こえてきそうな会釈に手を振って、俺は玄関へと向かった。
実際には庭を横切ったほうが早いのだけれど、相手が声を発していないので、家の中を通るルートを選択している。ご近所さんならば、チャイムを鳴らさずに声を掛けてくる場合が多い。それとは別に、最近では黙って上がり込む訪客もいるが。
ガラスの引き戸を開けると、制服に薄いジャンパーを羽織った若い警官が立っていた。まだ二十代前半といったところか。
「失礼します。小金井警察署から巡回連絡でお伺いしました、地域課の安西と申します」
そう名乗ると、手に持った台帳のようなものを開いた。警察手帳を提示しろ、なんて野暮なことを言うつもりはない。そもそも、この時期には本人の写真は貼られてはいないはずだし。
「沢渡悠真くんで、間違いないですね? 四月に転入されたとか……」
「はい。母が実家に戻るのと一緒に引っ越してきたんです。すぐそこの翠中に通っています」
「そうですか。じゃあ、今は香澄さんと三人で……?」
軽く奥を覗き込もうとする警官の視線を遮るように、俺は身体をひとつ分ずらした。ゲーム世界から連れて来られたと思われる悪役令嬢に、戸籍なんてあるはずがない。
このタイミングで手洗いに立ったりはしないでくれよ、なんて祈りはフラグであるかのように感じられてしまう。
「母は今、仕事で出てますねえ。なので、祖母と二人です」
「ああ、トミさんですよね。ご挨拶させていただければ」
「今、ちょっと足が悪くて。代わりに伝えておきます。だいじょうぶですよ、うちは何かあってもすぐ連絡しますから」
「そうですか。じゃあ、お手数ですが、ここに悠真くん本人のお名前だけお願いします」
こちらに向けられたボードに記名しかけた、そのときだった。
家の奥から、ごとっという物音が響いた。
……やばい。
目線を逸らさずに、その音の方向に注意を向ける。
幸い、音はその一度だけで、それきり何も聞こえなくなった。
「家族構成は……、お母さま、悠真くん、おばあさまの三人ということでいいですね?」
少し間が空いたが、答えるしかなかった。
「……はい、三人です。あと、野良猫がたまに遊びに来てますね」
そう告げたのは嘘ではない。ようやく交流の進んだ三毛猫が、このところ連日のようにやってきていた。
そこで、玄関の脇に並べられた靴が三足になっていることに、いまさら気付く。エルリアのものは、一番奥にずらしてはあるが、重厚なデザインであるためか存在感を隠しきれていない。
案の定、警官がそちらに視線を落とした。
「おや、そちらの靴は?」
「母のです」
ここは勢いで即答するしかない。そのまま、追加説明に入る。
「ちょっと派手ですよね。なんか、娘気分が抜けないみたいで。あれはお気に入りで……、ずっと置いてあるんです」
「なるほど」
一瞬だけ、相手の視線が鋭くなったような気がしたが、それ以上は追及されなかった。
「では、何かあった際にはすぐご連絡を。防犯上、見慣れない人物がいたら、遠慮なく通報してくださいね」
「……はい、もちろん」
警官は会釈すると、台帳を閉じて去っていった。門の外に消えるまで見届けて、ようやく息をつく。
巡回連絡は、確か元々は地下に潜ったコミュニズム勢力のあぶり出しが目的だったはずだ。門閥貴族の一員と思われる悪役令嬢は、コミュニズム勢力とは対極に位置するだろう。ただ、別の怪しさがあると言われれば、否定しようもない。
玄関から家の中に戻ると、廊下の突き当たり……、応接室の戸がほんの少しだけ開いていた。
「追っ手じゃないから安心していい。この土地の治安を預かる警察組織が、俺の転入を察知して確認に来たみたいでね」
「わたくしは、その治安組織からはどういう扱いになりますの?」
彼女はほぼ応接室にこもっており、初対面のあの日以来の会話成立となる。
「そうだな……。この地には、その家に誰が住んでいるかを登録して、確認する仕組みがある。それがないと、どうしたのかな、ってな話にはなってくると思う」
「そうですの……。憲兵のような存在は、この地にもいるのですね」
ミリタリーポリスというわけではないのだけれど、役割が近いのは間違いない。
「どうにかできるように、動いてみるよ」
異世界から来たのが確実と思われる素性が不明な少女は、拾ったと説明して済むような話ではないだろう。どこの国からと特定はされなくても、誘拐認定が為されかねない。ただ、彼女自身にはこの国で追われるような理由はない。
静かに扉が閉ざされたが、拒絶感は少しだけにしても薄れているように思えた。
この人物が、徐々にでもこちらの世界に慣れていくなら、そのための環境はなるべく整えたいところだった。
ばあちゃんが縫い物をしている気配を感じながら、俺は縁側に寝転んで曇り空を見つめていた。ゲーム世界の悪役令嬢が実体化したのだとしても、エルリア嬢がこの日本で実在しているのに疑いの余地はない。ならば、現実社会と紐付けるためのよすがが必要になる。
可能だとしたら、外国人として登録する手続きだろうか。それにしても、なんらかの裏付けは求められるだろう。難民認定は、国内に入ってからできるものではなさそうだし、理由付けにも苦労しそうだ。住民票への記載も、なんの裏付けもない状態では、そう簡単な話だとは思えない。どれも正規の手段を通せるとは思えなかった。
何より、戸籍も住民票も外国人登録もないとなれば、義務教育の受け入れ先も確保できず、医療も、銀行口座すら持てないわけだ。
DVやネグレクトのために、出生時に届け出が行われずに無戸籍状態になった子どもが、地道な調査と法的支援を経て戸籍を獲得する……、そんな新聞記事を前世で読んだ記憶はある。
だが、エルリアの場合は、過去の履歴がこの世界に一切存在しないと思われた。
痕跡すらない存在を、今まで生きてきたことにするのは、並大抵のごまかしでは通らない。となれば、偽装せざるを得ないだろう。
それを可能にできそうな知己は、植田方面にしか存在していない。それを理解しているため、廊下を腕組みしながら往復することになった。そして、電話台に置かれた黒電話に、じっとこちらを見つめられている気がしてきた。
俺が思い浮かべているのは、神後宗次郎……、創始会の神後の親分だった。
創始会は、長く服役していた父が所属するテキ屋発祥の任侠組織で、母やクラリッサがホステスとして働いていたのも、創始会傘下の店でだった。父……、鬼塚拓郎による襲撃から、俺という存在に気づいた流れなのだろう。
植田で過ごした最後の時期に、既に関わりは生じていた。困ったことがあれば連絡するようにとも言われている。
だが、今回の話には、だいぶ強いややこしさが内在している。単純に、経歴を洗浄するための書類偽造と、無から有を生み出すのでは、別の話となるだろう。
ジャパゆきさんと呼ばれるアジア各所からの出稼ぎ的にやってきた女性たちの中には、おそらく不法入国者もいるのだろう。その流れに紛れ込ませれば、あるいは対応できてしまうのかもしれない。
ただ……、対価として渡せるものが俺にあるだろうか。
取り出した名刺を手に、電話代に置かれた黒電話に正対する。記載された数字の羅列を凝視して、ダイヤルに指を入れて回転させると、番号ごとに戻す音が聞こえてくる。逡巡の結果として、ダイヤルを回すまでには一分近くの時間を要した。
回している間に、ミケと通称されている三毛猫が、玄関方面からやってきて足にまとわりつく。ただ、応対の動きがないことにやや不満そうでもあった。
最後の「7」を回すと、やがてコール音が聞こえてきた。そして、回線が開いた。




