【1985年5月上旬】その1
ゴールデンウィークの四連休を控えた五月初めのその日、西の空が朱色に染まり始めた頃、俺は駅南口の和菓子屋「亀屋」で柏餅を購入して小金井街道を歩いて帰ってきた。今日は、開かずの踏切は電車一本の通過待ちだけで通してくれた。普段の行いがひどいと、普通のはずの対応が善行と捉えられる的な感覚に陥りつつも、気分がいいのは確かである。
紙袋の中には、草の香りが強いよもぎ入りの餅に、上品な甘みのこしあんがマッチしているはずの柏餅が三つ収まっていた。
沢渡家に近づいたところで周囲を見回すが、この時間にはわりと散歩中のことが多い三毛猫の姿は無かった。遭遇したら、煮干しでも振る舞おうかと思っていたのだが。
この時代には、野良猫に餌を与えてはいけない、なんてルールは存在していない。地域に住む猫は、猫好きの家で共同飼育しているような状態だった。もちろん、猫が庭を通るのを嫌う家もある。猫避けにペットボトルを置くという、謎のおまじないはまだ普及していないようだが。
家の門を開いたところで、少しだけ見上げる位置の空間に違和感が生じた。後年の概念で言うところの光学迷彩に似た、揺らめくような動きに続いて、光の粒子が生じて、それが渦になった。
そして、次の瞬間には人の……、少女の姿が現れていた。肩ほどの長さのドリルっぽい金色の巻き髪は、縦ロールと表現すればよいのだろうか。碧い瞳には、少し怯えた光があるように見えた。
身に纏うのは、今のこの国のどこを探しても見かけることはなさそうな、濃い紅色の落ち着きのあるドレスだった。服の縁取りには金糸が走り、堅牢なブーツを履いていた。
少し途方に暮れたようでありながら、やや傲慢さも漂っているようにも見える。そのアンバランスさには、どこか危うさが感じられた。
地面に降り立った彼女は、こちらに気づいているのかいないのか、両腕を組んだまま空を見上げている。
蒼く、ほんの少し茜色が混ざりつつある空の下で、その姿はどこか、物語の挿絵のように見えた。
「……処刑は中止になって、島流しにでもなったんですの?」
鈴のような声音、とはこういう響きなんだろうな。そんな優先度の低いことを考えていると、やや警戒が強まった状態で言葉が続けられた。
「なんと見慣れぬ風体でしょう。まさか、裏大陸へ? ……それより、わたくしのこの身体は? これではまるで、何年か前の、王立学院に進む前の姿のような……」
そして一拍置いて、彼女の眉がひそめられる。
「なんとかおっしゃいなさい。無礼は許しませんのよ」
きつい表情にはどこか既視感があった。女神が放り込むとか言っていた流行りについての話が、いきなり脳裏に蘇った。
「ああ、あんたは悪役令嬢なのか」
ピクリ、と彼女の頬が引きつる。
「悪役令嬢とは、なんですの! わたくしは、そのような得体の知れぬものではありませんっ」
声がわずかに裏返っている。思い当たるところがあったのだろうか。
「君は……、もしかして死んだんじゃないか? それで、白い部屋で女神に転生の話をされていないか?」
今度は、口が真一文字に閉じ。こちらをきつい視線で見据えたあとで、彼女が問う。
「あなたも……ですの?」
その問いには、俺はぞんざいに頷くことしかできなかった。
「で、貴族令嬢だったりするのか」
「ええ。リンドラント公爵家の長子、エルリア=リンドラントと申します」
ほんのわずかに、誇りを取り戻したように名乗るも、すぐに視線を落とす。
「……ただ、家名はもう、名乗るべきではないのかもしれませんが」
「ここは、おそらく君の知っている国とは別の世界だ。たぶん、俺たちは……、この世界での異分子なんだろう」
「いずれにしても、悪役呼ばわりは許せません。説明を求めます」
強気に返されたので、俺はできるだけ中立的な表現を意識して、悪役令嬢という概念の説明を試みた。
「あー、悪役令嬢というのはな……、古くからの慣習の打破を目指す女性がいたとして、その存在を主人公だと仮定しよう。例えば、貴族特権を否定するだとか、因習や責任感の中で苦しむ王太子を癒やす存在であるとか。王太子が主役の女性に心惹かれた場合に、その人物との恋路を邪魔するのが悪役令嬢だ。視点はあくまでも主人公の女性に置かれるから、そういう見え方になる。よくあるパターンは、主人公の振る舞いが貴族的でないと注意しただけなのに、悪質ないじめをしたと断罪される、みたいな諸々が積み重なって、婚約解消に陥るパターンだな。周囲の人間が悪事を働いていれば、連座して処刑されるケースもある」
彼女の表情が、みるみるうちに青ざめていく。
「図星かな? その上で、処刑されて、若返り転生したってわけか。そうであるなら、少なくともこの世界まで追ってくる奴はいないだろう。安心していい」
「……無礼です」
さらになにかを言い募りかけて、また黙る。混乱しているようでもある。
「おそらく、行き場所はないんだよな。ご飯と寝床くらいは用意するよ。自活したければ、それももちろん好きにすればいい。俺は、この世界の未来から来た転生者で、その意味ではあんたと似たような境遇だ」
紙袋から、柏餅を一つ取り出して差し出す。
「腹、減ってるか?」
エルリアは、ためらいながらもそれを受け取り、しばらく眺めたあと、ぽつりと言った。
「これは……、葉っぱを食べろと? わたくしには、それがお似合いだと言いたいのですの?」
「いや、中身だけだ。その葉っぱを皿に見立てて食べれば手が汚れない」
「なんと原始的な……」
そう言いながら、おそるおそる葉っぱ部分を剥くようにして柏餅と対面する。そして、矯めつ眇めつした末に、ひとくち食べた。目が見開かれ、同時にお腹に手が当てられた。大方、腹の虫でも鳴ったのだろう。頬が紅く染まっているのは、夕映えのせいだけではなさそうだ。そのまま、三口で完食に至る。
「とりあえず、中へ。逃げたければ、いつでも逃げ出していい」
促すと、小さく息を吐きだした彼女が無言で頷いた。
玄関の引き戸を開けて、帰宅を告げる。
「悠真? お帰りなさい」
足腰が弱っているばあちゃんは、急には立ち上がれない。それでも和室から顔を覗かせると、俺の後ろに立っているエルリア嬢を見て、目を丸くした。金髪碧眼のドレス姿の少女が、都下の民家にいきなり現れたのだから、無理もない。
「まあまあ……、可愛らしい。お人形さんみたいね。この子はどうしたの?」
「道で拾ったんだ。いろいろあって、とりあえず食事を振る舞おうかと思うんだよね。もしかしたら、しばらく泊めることになるかも。いいかな?」
祖母は数秒黙った後、にっこりと笑った。
「部屋はあるから、使えばいいわ。……お嬢さん。好きなだけ、居てくれていいのよ」
肩越しに見やると、彼女の肩は少し震えているようだった。




