【1993年9月中旬】
【1993年9月中旬】
この月には、鹿児島の豪雨で40人を超える死者が出た。俺が引き起こしているわけではないが、どうしても無力感に苛まれてしまう。
新聞で関連記事を読んでいると、めずらしく早い時間に島崎結菜がやってきた。機械いじりの道を極めつつあるこの人物は、遅めの時間に現れてフラッシュの機器を調整していることが多い。
コーヒーを入れようとしたら制されて、自販機で缶コーヒーを選択していた。まあ、缶コーヒーと普通のコーヒーは別の飲み物ではある。
缶を握りしめた結菜は、少し深刻そうな表情で口を開いた。
「久世くんが、院に進まないかもと言っているらしいの」
これは、さすがに意外な話である。
「就職するってことか?」
「家庭の事情だとか」
「伝聞として語るからには、結菜が聞いたわけじゃないんだよな」
「うん。中神さんが知らせてくれたの」
中神さんとは、久世と俺が小金井翠中で一緒だった人物である。久世は、当時からどことなく気にかけていたようではあった。
より詳しく聞いてみると、久世の実家の家業が傾いていて、進学資金の確保と立て直しに参加する両面からの話らしい。
「久世のところの家業はなんだったかな」
「店舗の内装を手掛けている工務店みたい」
「進学資金は支援金として提供できそうだが、傾いた会社となると……、待てよ。その会社の名前はわかるかな?」
「確か、久世の久から丸久なんちゃらとか言っていたような」
「ちょっと当たってみるよ。そして、いい方策がないか考えてみる」
「うん」
結菜は少し安心したように、缶コーヒーを開けて口をつけた。俺も、マグカップに注いでおいたコーヒーを口に含む。冷めつつあっても、いい香りが鼻腔に到達していた。
武蔵信金から渡されていたリストから、それらしい名前を見つけることができた。マルヒサ建装というのが、久世の父親の運営する会社だった。従業員は、事務も含めて十一名とのことだ。
その件でと久世を呼び出すと、少々の抵抗はあったものの、にゃんこハウスに出頭してきた。今回も、打ち合わせスペースを使わせてもらい、事実関係を確認したのち内情の聞き取りに入る。
「親父さんに、やる気は残っているのか?」
「ああ。仕事が好きな親分肌なんだが、金勘定が壊滅的に向いていなくてな」
経理方面を任せきりだった番頭役が、株でだいぶやられてしまって横領に及んだそうだ。話がそこに及んだところで、シャリーが膝に乗ってきた。久世の表情が少し緩んだが、問答は続いた。
「番頭役の処遇は?」
「親父が警察沙汰にはしたがっていない。昔からの付き合いだからな。そこがまた、厄介なんだ」
まあ、ありがちな話ではある。
「業務内容としては、店舗の内装との認識でいいのか?」
「外装もやっているし、店舗専門というわけでもない、まあ、なんでも屋だな。景気悪化で受注もだいぶ減っていたので、横領の件がなくても苦境に陥っていたかもな」
「久世が家業に入れば、なにか変わるのか?」
「ただで使える人手が増える、くらいの話だな。正直、焼け石に水でしかない」
「健全じゃないな」
「ああ。だが、わりとどこもそんなもんさ」
久世の声音は、そこまで暗い響きにはなっていない。
「問題点は、横領分の穴埋めと、受注減への対応と理解してよいかな」
「丸めると、そういうことになる。横領分が戻っても、苦境には違いないと思う」
「うちの会社で丸久建装を買い取って、親父さんには仕事をこなすことに専念してもらう感じでどうだろうか」
「悠真にそこまでしてもらうわけには……」
「まあ、とりあえず、思考実験として付き合ってくれ。内装、外装以外の……、住宅向けのリフォームや、将来的な太陽光発電と蓄電池の設置には対応できるかな」
「可能なはずだが、少なくとも現時点での太陽光や蓄電池ではかかる費用ほどの効果は見込めないぞ」
「それでも、需要は出てくるだろうからな。まずは、可能性の検証までさせてくれ。従業員は、親父さんが残ればついて来そうか?」
「それはおそらく」
「であれば、しばらく凌いでくれれば、やがては店舗の改装需要も戻るだろう。それと、市川の親父さんの知り合いに車の架装を手がける会社があってな」
以前、災害対応向けトラックが出た際に、市川が紹介してくれた会社である。あいさつしようとの話は、社長交代の絡みで沙汰止みになってしまっていた。
「そんな話もあったな。タクシーやバスの装備を調整するんだっけか」
「そこも傾いているらしいんだ。業務的に共通するところはあるかな」
「まあ、ある程度は」
「そっちは、婿入りした二代目社長が、地銀出身の金勘定特化型でな、取引先との関係性がうまく維持できず、職人も離反気味で、仕事が回らなくなっているらしい」
「噛み合わせて補完しようってことか」
「そこの拠点は立川にある。資金はうちが出資で提供して、現社長二人は両社に所属する形で事実上合体させる。どうかな?」
「企業再生ってことか。まあ、どちらも配当でがっぽがっぽって会社でもないわけで、いいのかもな。……だが、悠真に旨味はあるのか」
「もちろんだ。手札は増えるし、災害対策トラックも作ってほしいしな」
そうは言っても、実情としては持ち出しになるだろう。ただ、実働部隊ができるのは悪いことではない。こもれび食堂や龍栖神社、カストルム小金井関係の仕事も回せる可能性もあるし。
久世は目を閉じ、やがてまた開いた。
「俺も事業運営に参加させてくれ。それは譲れない」
人材確保の観点からだけ見れば、魅惑的な申し出ではある。しかし……。
「いや、久世は研究を続けてくれ。久世に二社を率いてもらえれば心強いが、蓄電池の研究を進めてもらった方が、社会の役に立つと思う」
「買いかぶりかもしれんぞ」
「試してみる価値はあるだろう。やり切って、ものにならないと確定してから事業の道に入っても遅くはないさ」
「本当にいいのか?」
「もちろんだ。武蔵信金と西園寺法律事務所も巻き込んで、話をまとめよう。……うちにもメリットはあるから、気にしなくていいからな」
「そういうわけにもいかんって。ありがとな」
まあ、久世の進学の話が絡まなければ、手を出さなかっただろうことは間違いないのだが。
大学に戻るという久世を送り出すと、片付けに突入する頃合いとなった。にゃんこハウスの片付けを三浦社長と一緒に手伝うと、こもれび食堂へと向かう。
既に夕食の後片付けは概ね済まされ、奥のテーブルでは自習王子二人と、紗良ちゃん、美羽ちゃんの他、数人が勉強に励んでいた。
「悠真さん、打ち合わせおつかれさまです」
近寄って笑みかけてきた紗良ちゃんの顔に、危機感は浮かんでいない。対して、美羽ちゃんはちらりとこちらに視線を向けてきたものの、参考書にすぐに目を戻していた。
「なんだか、緊迫しているね」
低声で問いかけると、少し困ったような表情になった。
「そうなんです。受験組が何人かいまして。大学を受ける私たちと、高校受験組と」
「高校も、今の時期からやるものなのかな?」
「貴也くんの影響で、自発的にやっている子が多いんです。本人は、受験と離れた調べ物とかしてますけど」
話に出た貴也くんとは、元祖自習王子のことである。
「美羽ちゃんは、どこを志望してるんだっけ?」
「都立大を目指しています。人文学部で、社会福祉方面を学びたいようです」
「そっか、公立か……」
「必ずしも、公立限定で選んだわけじゃなさそうですけどね」
「紗良ちゃんは、芸学大志望だっけ?」
「はい。教養系の日本研究を、茜音さんに勧められまして」
都立大は八王子の南大沢で、芸学大は小金井の西寄りにある。どちらも、近場の進学先を目指しているようだ。
「美羽ちゃんにとっては、高いランクになるのかな?」
「現状ですと、はい。ただ、まだ時間もありますし」
「そっか。……ここは勉強しやすい?」
「ええ、とても。賑やかな時間帯もありますけど、それでも大騒ぎになることは少ないですし」
意外と遊び場にはなっていないらしい。もしかすると、貧困の気配を察して、親が近づくのを嫌がっているのだろうか。それはそれで、問題はなにもないのだが。
と、自習王子が席を立って歩み寄ってきた。手に持っているのは、先日の技術検討会の討議録である。
「なあ、この自動運転研究なんだけどさあ」
「お、どうした?」
「ちょっと、さすがに粗くないか? 途中まで車の自動運転の話だったのが、いつの間にか高度まで入ってきてるぞ」
「あー、そこは突貫だったからなあ。当初はカメラ認識の自動運転までが対象だったんだが、ラジコンヘリの自動操縦も取り込もうとして、そうなると話が変わってきて」
「しかも、なんで映像だけなんだよ。そこまでやるなら、熱もだろうに」
「そこは、その通りだな。とっかかりをどうするかの話と、最終型の想定がごっちゃになってる感はある」
「それでいいのか?」
「学業から離れようとしていた研究者を連れてきて、一ヶ月かそこらで一から検討させたんでな。そのわりにはまとまってる方だとも言える」
「そういうもんなのか……」
不満顔で応じるその様子を、年長の紗良ちゃんは微笑ましげに眺めている。対して美羽ちゃんは参考書に顔を近づけたまま、なにやらうめき声を上げていた。なにか飲み物でも差し入れるとしようか。
厨房に向かうと、桜庭さんが片付けを進めていたので、合流する。帰路に着く子も増えて、室内には穏やかな空気が流れていた。




