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【1993年8月下旬】


【1993年8月下旬】


 沢渡邸に電話が入り、呼び出された先はこもれび食堂だった。夕立が来そうな雲行きの中で穏やかな住宅地を抜けていく。龍栖神社の敷地に入ったところで、頭上からぽつりと水滴が落ちてきた。


「悠真さん。お呼び立てしてすみません」


 ホッとした表情で迎えてくれたのは、梨乃さんである。沢渡家に電話をしてきたのは、この人物だった。背後にいる紗良ちゃんは、少し心配そうな空気を纏っている。


「いやいや、いつも助かってます。……で、その人は?」


「あちらに」


 食堂の片隅に腰を下ろしていた人物とは、ひさしぶりの再会となる。


「安西巡査、でしたか」


「お、覚えられてたか。ひさしぶりだな」


 にこやかに手を挙げたのは、かつての事件の際にも絡んだ地域課の警察官だった。正面に腰を下ろすと、俺は周囲に視線を投げた。第二王子が自習しているが、耳はこちらに向いているようでもある。まあ、話が込み入ってきたら、場所を変えるとしよう。


「で、ご用はどのような」


「言葉は、無理に整えなくていいぞ。で、用向きの前に、ちょっと確認させてくれ。この施設の運営責任者は、君でいいのか?」


「まあ、そうだね。龍栖神社の敷地内だから、神職である桐島茜音さんの管理下だとも言えるものの、神社を所有しているのは法人としての沢渡企画で、俺が実務上の責任者だから。……会長として、うちのばあちゃんもいるけど、まあ、そこは便宜上ということで」


「どうやって神社を手に入れたかは、あえて聞かないがな」


 口ぶりからして、経緯は把握しているのだろうか。まあ、目はつけられやすい存在なのだろう。


「バブルで儲けて、そのアブク銭で入手しただけなんだよなあ」


「アブク銭を溶かすような奴は、そうは表現しないんだよ」


 それは、確かにそうかもしれない。


「で、だな。ここを仕切ってるのは、あの金髪の嬢ちゃんでいいのか?」


「エルリアを中心に、あちらの桜庭梨乃さんや、他のスタッフも連携して運営してる」


「女性だけで、不用心じゃないか?」


「利用者はほぼ子どもとその母親だからなあ。父親を拒絶しているわけじゃないんだけど。防犯的な意味合いなら、渡り廊下でつながっている猫ハウスには、常連の男性やスタッフがいることが多い。あとは、夕方には俺や、他の男手が加わる感じだけど」


「ほほう……。それでだな、ちょっとクレームと言うか、問い合わせが入ってな」


「どのような?」


 聞けば、いわゆる市民団体が、偏向教育……、具体的には軍国教育をしているからどうにかしろ、とねじ込んできたそうだ。


「それって、警察の仕事だっけ?」


「そんなわけないだろ。本気の調査だったら、俺が一人で来ないって」


「そりゃそうか。……なんか、いきなり押しかけてきて、子どもへの支援をするなら連携しろ、って話から、反戦活動や護憲活動にも協力すべきだ、みたい方向に展開して、拒絶したらなんか絶叫しはじめちゃって」


「もうちょっと、穏便に収められなかったのか?」


「どうも軽く見られていたみたいで、反発したのが気に障ったんだろうなあ。……警察的には、むしろあちらが監視対象なんじゃないの?」


「まあ、そっち系の政党や労組系の人間と近いのは確かだろうが、うちは公安とも違うんでな。内部にも、そういう活動に理解のある人間がいないとは言い切れない。仲良くしてくれた方が無難なんだが」


「あちらの領分を荒らす気はないんだけどなあ。小金井は、やはり市民活動的な動きが強いのかな?」


「一般論としては、小金井も含めた中央線沿線のこの辺りは、伝統的にそうだな」


「でも、縄張り的には、ぶつからないと思うんだよなあ。うちがやってるのって、子どもへの食事提供と、就学支援くらいなので」


「彼らからすれば、そういった方面は行政が担当すべきで、それに向けて圧力をかけているから、邪魔だという考え方も成り立つが」


「受け手からすれば、誰の財布から出た金なのかは、関係ないだろうに」


「そりゃそうだ。……現状は、あちらさんの中でも一部が言ってきているだけだろう。ただ、本格的に邪魔になれば……」


「潰しに来るってか。それは厄介だな」


「まあ、それも含めて、なにをするかは好きにすればいい。今日のところは、様子見のための訪問だしな」


「……こちらから連絡をしても?」


「かまわんよ。言えること、言えないことはもちろんあるがな」


 警察官は、名刺に個人用の電話番号を書いて置いていった。


 眺めていると、少し離れた位置に座っていた第二自習王子こと瀬尾直哉少年が声をかけてきた。


「悠真にーちゃん、逮捕されちゃうの?」


「いやいや、様子を見に来ただけだってよ」


「なにもないのに、警察が?」


 不審そうである。まあ、そりゃそうか。


「しばらく前に、訪ねてきた御婦人二人がいたのを覚えているかい?」


「あぁ、あの大騒ぎしていたおばさんたち」


「ご婦人方、な。方向性が違うんで、協力できないと宣言したら、恨まれたようだ。ここで軍国主義を教えてるから摘発しろ、と警察に求めたらしいんだが」


「軍国主義なの?」


「違うし、政治信条を押し付けたりもしていない。押しかけてきたのを見てただろ?」


「まあ、騒がしかったよね。王子も呆れていたし」


「お前からしても、貴也は王子なのか。二人して、王子呼ばわりされてるぞ」


「いや、ぼくは貴也くんとは違うし」


 そう口にしながら、実際の思いがよくわからない表情だが、あまり踏み込む必要はないだろう。


「あちらにも、おそらく正義と、それに紐づく世界観があるんだろうけど、俺の世界認識とは異なっているようだ。そして、エルリアとも」


「エル様と悠真にーちゃんにも、ズレがあるということ?」


「それはもちろん。ただ、あの御婦人方との違いほどは激しくないと思う。それに、違っていても本来は問題ないんだ」


「あのおば……、ご婦人方とは問題ありってこと?」


「そうだなあ。エルリアとの違いは、お互いに議論もできるし、それでも別の考えを持つとしたら、多少の口論はあったとしても、おそらく互いの認識を尊重できるだろう。だが……」


「あの二人とは、話が通じない、と」


「おそらくは。ただ、あの二人が属する勢力は、国家を仮想敵として戦ってきた人たちなんだ。だから、団結しなくてはいけないし、攻撃的にならざるを得ないのかもしれない」


「国が、あの人たちを攻撃するの?」


 その会話を引き取ったのは、いつの間にか近づいていた初代自習王子、貴也少年だった。西城高校に進学したこの人物は、引き続き夕方にはこもれび食堂に来る場合が多いようだ。高校が居づらいのか、この場の守護者になろうとしているのか。


「実際には、東西冷戦の影響だよ。アメリカ寄りの政府と、ソ連寄りの革命勢力の抗争なのさ。南北ベトナム、朝鮮半島と同じ構図が生じていて、内戦まで進まずに済ませられたと見るべきだろう」


「それはちょっと極端かもしれんが、まあ、大枠はその通りと言えそうだな」


「事理民本党と、ソーシャル党やコミュニズム党との争いのこと? でも、政界再編がどーのこーのとテレビで言ってるけど」


「ソ連邦が崩壊して、構図が変化しつつあるのさ。いずれ、もっと揺らぐことになる」


 淡々とそう告げる自習王子の瞳には、どんな世界が映っているのだろう。


「貴也は、その世界をどうしたいんだ?」


 俺の言葉に、ふっと笑みを漏らす。


「自立するのに精一杯さ。そういう難しいことは、恵まれた環境にある連中が考えればいい」


 そう告げて話を打ち切ると、少年は書棚に本を戻し、新たな本を抜き取った。自習王子からの質問への対応を試みた結果、ここには友人たちが提供してくれた各分野の書籍が置かれている。


 戻された本は「利己的な遺伝子」で、取り出された大判の書物は「ローマ人の物語」の一巻だった。並んでいる本の中には、「複合不況」もあった。この本のおかげで、俺の未来知識によるこの先の停滞が、現実感を持って受け入れられ始めている、というのが実情だった。


「ぼくは……、どうしたいのかな」


 少し迷うような視線を向けてきたのは、第二自習王子こと直哉少年だった。こちらは、問題集を解いている状態だった。


「やりたいことを探すために、進学するのもいいと思うぞ」


「そうだね」


 応じた声には、やや寂しさが混ざっているようでもあった。近くで過ごしていれば、貴也と年長者の会話も聞こえているだろう。そこでは、技術検討会ほど専門的ではないにしても、各分野の知見を交えた交流が行われているのだった。


 ただ、まあ、人はそれぞれ興味の方向も、進みたい分野も違うはずだ。焦る必要はないんだぞ、と言いかけたが、その言葉は空疎なものになってしまいそうで、音声にはならなかった。


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