【1993年7月】
【1993年7月】
夏は訪れているが、改めて考えると前世での気温の感覚との落差には愕然とする。
令和に入った頃の夏は、三十五度を超える日は普通にあった。だが、この夏の気温は三十度そこそこである。
暑いと言えば暑いのだが、生命の危険を感じるほどでないのは間違いない。実際、年輩の人の感覚では、クーラーは贅沢品だ、といった感覚が存在している。沢渡邸には既に有無を言わさず導入済みで、がんがん使いまくっているけれど。
夕方、カストルム小金井を出ると、こもれび食堂のクローズに立ち会うべく龍栖神社方面へと向かう。にゃんこハウスのカフェ営業は細々と続いているが、現状は午後五時でカフェ営業を閉めて、猫ハウス側の要員がこもれび食堂の夕食対応に合流する形となっている。
カフェでは、プレイタウン・フラッシュを運営する三浦社長が入り浸っているほか、カストルム小金井を手放した高沢氏も、わりとよく顔を出しているらしい。二人とも金払いがよく、騒ぐでもないので、経営的には貴重な存在となっている。
こもれび食堂とにゃんこハウスは、どちらも龍栖神社が運営する形になっている。ただ、龍栖神社は沢渡商会の一部門という形のままだった。ぼちぼち宗教法人化しておいた方がよいだろうか。
夏至は既に過ぎているが、夕方はまだ明るさが残っている。あいさつをして入ると、中にはそこそこの人数がいた。既に夏休みに入っていて、遊び場所として訪れている子らも多いようだ。外遊びには対応していないものの、おしゃべりやカードゲームくらいであれば歓迎である。
そして、遊び場を探す過程で話が伝わり、単独で困窮していそうな子がやってくることもあった。こもれび食堂では、貧困によって食事が与えられていない状態を、どこかに通報しようとまではしていない。食事を提供して、状況によっては入浴をさせるケースもあった。
特に長期の休みは、放置が起こりやすいし、給食だけで食べ繋いでいる子が窮地に陥るタイミングでもあった。心を開いてくれた子には、同じような境遇の子がいたら誘ってみてほしい、と頼むこともあった。
親の中には、子どもがここで食事をすれば、食費が浮くと考える者もいるだろう。その家庭が困窮しているかどうかは考えず、歓迎するという整理が行われている。まあ、この時代は他者から援助を受けるのを恥だと考える傾向が存在していて、利用する人数が抑えられているとも考えられた。
食事作りを手伝い、徐々に送り出しに移行する。さすがに、寝床までは提供しない。その一線は守っていた。
桜庭さんを見送って、遊戯室の片付けをしていたところ、出入り口の扉が開かれた。
「こんばんは。遅くに悪いんだけど、いいかしら」
顔を覗かせたのは、蒼衣さんだった。
龍栖神社の神職を務めてくれている桐島茜音さんのお姉さんで、法仏大学の工学部で研究を続けている人物である。
「ええ、どうぞー。もう子どもたちは帰っているので、のんびりできます」
「後片付け中だった? トミさんに付いている必要があるようなら、出直すけど」
「だいじょうぶです。今日はエルリアが戻ってくれているはずです。中の広間にどうぞ」
「ありがと」
会釈をした蒼衣さんは、奥の席に腰を下ろした。
氷を入れた麦茶のコップを置くと、そっと包むように手を置いている。少しは涼しくなったかもしれないが、まだ外は暑気が優勢だろう。
「ちょっと、相談があるの」
普段よりも口調が堅い。俺は、片付け作業を止めて、向かいの椅子に腰を下ろした。
「はい、なんでしょう」
「技術検討会で、自動運転の話が出ていたじゃない?」
「ありましたね」
「自動運転というか、画像認識しての判別と、位置情報との照合みたいな基礎知識の話になると思うんだけど」
「おっしゃるとおり、白線や磁気の誘導に合わせてハンドルやアクセルを制御するよりも、カメラやセンサーで周辺環境を把握して、自律的にどう進むかを決められるのが望ましいです」
「相変わらず、イメージだけ変に明確なのよね……。で、そうなると学際的なテーマではあるんだけど、センサー系の研究室の修士課程の学生が一人、興味を示したのよ」
「ほうほう。それで、どんな問題が?」
研究テーマとして設定したいから協力をしてくれ、という話だったら、蒼衣さんのテンションは違っているはずだ。
「察しがいいわね。学費が足らず、待たせている女性もいるから、修士で研究活動を切り上げることを検討中なの」
「人物はどんな感じです?」
「如才なくて、頭は回りそう。民間企業向きかもしれない」
「むしろ、そういう人に研究を続けてほしいですけどね。……高校、大学と広げてきた就学支援金は、いずれ修士、博士に広げるつもりでした」
「でも、修士、博士に無条件に出すわけにもいかないんじゃないの?」
「それはそうですね。まあ、低めの額なら、漏れなくでもいいんですけど。……特に強化すべきで、連携できそうな分野は手厚く出しましょう。あるいは、寄附講座みたいな形の方がいいですか?」
「指導教授にも聞いてみるけど、まずは個人向けの方がいいかもしれない」
「できれば、博士号取得者への就職支援なんかもしていきたいですねえ」
「そこは深刻な話なのよ。下手に修士、博士を持っていると、敬遠されてバイトや派遣仕事しか見つからない、なんてこともあるみたいで」
「なるほどねえ。ま、そこはおいおいとして、下支え的な援助から始めますか。まずは身近な理系研究者に、定額……、年間五十万円程度の支援枠を作って、自動運転基礎研究をやってくれる人は丸抱えで、みたいな感じでいいですか? 本格的な制度づくりは、西園寺法律事務所に任せるとして」
「それは、有意義だと思うけど……、悠真くんの懐具合がわからないから、なんとも言いづらいのよ。特に、定額支援の方は、どのくらいの規模を想定しているの? 全大学に広げたら、すごい額になるわよ」
「それは確かに。じゃあ、紹介枠を知り合いに渡して、推薦してもらう感じにしましょうか。蒼衣さんに五枠、久世と結菜に三枠、瑠夏と芽依と茜音さんに一枠くらい?」
「文系にも出すの?」
「よほど有意義なら、ってとこですかねえ」
「でも、選定するにあたって、権益が生まれそうだけど」
「いいんじゃないですか。派閥を作って立場が固まって、研究がやりやすくなるのなら、それもありです」
「達観しているのか、なんなのか。まあ、まずは自動運転基礎研究の候補を、技術検討会に連れてくるわ」
「そうしてください。……にゃんこハウスも寄っていきます」
「どうして、そうやって見透かそうとするの。まあ、行きたいけども」
「じゃ、給餌器のチェックを手伝ってもらえますか?」
夜の時間には人がいなくなるので、餌はタイマーだよりでの供給としている。ミケの一族は概ね夜に寝る子らが多いが、野良の活動時間がさまざまであるように、ここにも昼夜逆転組や、断続睡眠気質の個体もいた。
麦茶のコップを片付けると、二人して夜の巡回へと出かける流れとなり、蒼衣さんは多くの猫たちに歓迎されたのだった。




