【1993年2月/3月】
【1993年2月上旬】
ばあちゃんの体調は一進一退といったところで、エルリアがだいぶ心配している。
本人は、できれば住み慣れた家で逝きたいと言っているが、さすがにまだ気が早いだろう。どうにか持ち直して、もっと長生きしてほしいところだ。
これまで、沢渡家でのこもれび食堂的な活動も断続的に行われていたのだが、今年になってからは完全休止としている。それはそれで寂しいだろうからと、紗良ちゃんや美羽ちゃんが訪れて話し相手になってくれている状態だった。ハチも、ずっと住んでいたかのような顔で過ごしている。
休止についてばあちゃんには、龍栖神社外周部に新設したこもれび食堂、にゃんこハウスの安定化と、南口の銭湯を利用したこもれび食堂の新設に手がかかっているためと説明している。かつてなら、手伝おうとの言葉が出てくるところだろうが、やはり体調の不安があるのだろう。
そんな中で、自動車メーカー大手の亜細亜産業を由来とする「アッサン自動車」の座間工場での車両生産中止が発表された。アッサンは武蔵村山にも工場を持っていて、村山出身のばあちゃんは他人事ではないと心配していた。俺の記憶では、確か閉鎖されることになるのだが、今回も同様だろうか。
ある日、おやつを食べながら三人でテレビを見ていると、矢の刺さったカモのニュースが流れていた。このところ、メディアが総力取材を仕掛けているのは「矢ガモ」だった。
池を泳ぐその姿を見て、ばあちゃんは眉を曇らせる。
「ひどいことをする人がいるものねえ」
エルリアは、画面をじっと見つめていた。
「捕まえて、治療することはできないのでしょうか」
「やろうとしてるみたいだけど、野生の鳥だから難しいのかな」
「傷つけた者は、何を思ってこのようなことを。狩猟の対象というわけではないのですよね?」
「おそらく、遊び半分なんだろうなあ」
「ひどい話です」
こたつに入った金髪の人物の声には、静かな怒りが滲んでいた。
子どもたちの間でも話題になっているらしく、こもれび食堂では美羽ちゃんが小さな子に聞かれて困っていたという。なぜそんなことをする人がいるのか。どうしてすぐ助けられないのか。大人でも答えに詰まる問いだった。
実際には、野良猫を戯れに傷つけるケースもあるようだが、矢ガモが注目されたのは絵面の派手さからなのだろう。
画面の中の話題は、皇太子殿下のご成婚話へと切り替わっている。先月に内定との発表があって、断続的に報じられている状態だった。結婚は六月頃との話で、この世界でも同じように進むのだろう。
その報道を眺めながら、ばあちゃんはちらりとこちらに視線を送ってきた。
「ねえ、悠真。あんたにはご成婚の話はないのかい?」
「残念ながら、皆無だねえ」
「そうかい。……まあ、結婚だけが人生じゃないんだろうけど、周囲にわりと女の子がいるのにねえ」
「まあ、女性側にも選ぶ権利はあるわけだしなあ」
ふっと笑ったばあちゃんは、甲斐性がないとまでは言わないでくれた。そして、湯呑みを両手で包みながら、少しだけ寂しそうにテレビへ視線を戻した。その横顔に、俺は何も気の利いた言葉を返せなかった。
【1993年3月】
矢の刺さったカモは、二月の中旬に保護され、下旬には無事に放されたらしい。
こもれび食堂でも、そのニュースは小さな安堵をもって受け止められていた。テレビの中で池に戻った姿を見た子どもたちは、よかったねえ、と素直に喜んでいた。
だが、エルリアの表情は少し複雑だった。
「助かったことは、本当によかったと思います。でも、傷つけた者がいる事実は変わらないのですね」
「まあな」
「弱いものを傷つけて、騒ぎになれば、今度は皆で助けようとする。この世界は、優しいのか、残酷なのか、時々わからなくなります」
「そうだなあ……。両方なんだろうな」
そう答えるしかなかった。
この国は、ひどいことをする人間もいる一方で、傷ついたカモ一羽を助けるために多くの人が動くこともある。そこに救いを見るべきなのか、矛盾を見るべきなのかは、俺にもよくわからない。
ひとつだけ言えるのは、センセーショナルな事象があれば、その社会的意義の軽重など考えずに大騒ぎするメディアの存在は、この時代も将来も変わらない、ということだろう。
そんな中で、三月に入ると、政治の方でも大きなニュースが飛び込んできた。
事理民本党の大物政治家である金倉信司氏が逮捕されたのである。運送会社との癒着からの闇献金は、前年に政治資金規正法違反として略式起訴による罰金のみで処理されていた。事理民本党の副総裁で、派閥の領袖だった人物なだけに、役職と議員の辞職を経ても、あまりにも軽いとの激しい批判が巻き起こった。そんな流れの中で、検察庁の表札にペンキをかけた人物が逮捕されるという事態も生じた。
その声に押されるように、検察は脱税事件で身柄を取った、というのがこのタイミングでの逮捕となる。この一連の騒動は、政界の古い構造を大きく揺るがすことになる。
これもまたひとつのセンセーショナルな事態であり、テレビでは政治とカネ、政治改革、派閥政治の限界といった言葉が繰り返されていた。
「また、政治家がお金で捕まったのですか」
エルリアが、呆れたように問いかけてくる。
「そうなるな。前にもリクルーティング事件があったし、今回もかなり大きい」
「王侯貴族の腐敗と、さほど変わりませんね」
「そう言われると身も蓋もないけど、民主主義でも腐敗は激しいってことだな」
ある程度、政治と金の問題へのメスが入った後年でも様々な疑惑や不祥事が頻発していたが、55年体制で固定されていたこの時期の事理民本党の大物は、不正の規模も大きい。この金倉氏の逮捕容疑でも、十数億規模の不正蓄財が挙げられていた。
「それで、民は怒るのでしょう?」
「怒る。けど、怒った後で、どういう制度に変えるかが難しい」
ソーシャル党やコミュニズム党は事理民本党の腐敗を断罪して一定の支持を集めるが、彼らに本気で政権を任せたいと考える人が多くいるかというと、首を傾げざるを得ない。そう慢心した与党側が、より奔放に振る舞い……、という危険な循環が生じてもいた。
平成革新の会が出てきたのも、こうした空気と無関係ではないのだろう。政治家を格付けし、改革派を後押しする。発想としてはわからなくもない。
ただ、政治を数字や評価表だけで測るのも、危うい気がしている。実際問題として、腐敗しながらも国益を実現する政治家は存在するのだろう。
こもれび食堂に来る子どもを、成績や家庭の困窮度だけで区別などできないように、政治家もまた、単純な点数だけでは測れないものと思われる。ただし、それを口実に腐敗を見逃してよいわけでもない。
金倉氏の逮捕に絡んだニュースを見終えたあと、俺は南口の銭湯へ向かうことにした。
有馬千尋嬢が入れ込んでいるその銭湯は、外から見ると、いかにも昭和の公衆浴場という佇まいだった。煙突があり、入口には色褪せた暖簾がかかっている。営業を続けてはいるが、客足は明らかに減っていて、営業休止の方向だという。
この日は、こもれび食堂的な拠点としての使用についての、最終的な下見だった。同行したのは、エルリア、結菜、瑠美ちゃんママこと真下さん、それに千尋嬢である。なぜか話を聞きつけた金田も来ていた。消防目線で見ておきたいらしい。
「やっぱり、いいでしょう?」
千尋嬢はなぜか誇らしげだった。
「まあ、雰囲気はあるよな」
「雰囲気だけじゃなくて、お湯もいいんです」
「銭湯としての機能は、疑ってないよ」
結菜は、のっけから脱衣所や浴室よりも機械室に興味を示していた。古いボイラーや配管を見て、うん、とか、これは、とか、なにやら呟いている。
「どうだ?」
「専門外だけど、整備は行き届いている。ただ、長く使うなら手を入れたい。配管の一部と、換気。あと、電気系統」
「金がかかるやつだな」
「安全に使うなら、かかる」
その言い方は、先日、龍栖神社で出会った老齢の人物の言葉にも通じていた。
「あと二十年と考えると、しっかり手を入れた方がいいかな?」
「そうだと思う。ただ、専門家にも見てもらった方がいい。……確定的なことは言えない。ごめん」
「いや、ひどい状態でなさそうだとわかっただけで、とても助かる」
もう少し見て回るという結菜のところを離れると、金田が浴室の出入口を見て、腕を組んでいた。
「子どもを入れるなら、時間帯を分けた方がいいな。あと、脱衣所に大人の目がいる」
「こもれび食堂と併設するなら、入浴時間と食事時間をずらすべきですね」
瑠美ちゃんのお母さん、真下さんが、すぐに運用面の話へ移る。
「一般のお客さんが出入りするなら、小さい子だけでの利用は全般的に避けたいです。親子利用か、こちらで見守り体制を作るか」
「そこは、気をつけた方がいいだろうな」
休憩室として使えそうな奥の和室に入ると、古い座卓がいくつか積まれていた。畳は少し傷んでいるが、掃除をすれば問題なさそうである。
「ここで、こもれび食堂の南口版をやろうとしているんですよね」
真下さんとエルリアが、部屋の広さを目測している。
「食事を出すだけなら、どうにか。自習場所や遊び場としても使うなら、もう少し広さが欲しいです。食堂と遊び場所、さらに自習場所をわけられれば理想なんですけど」
「実務的な視点で助かります」
真下さんは、少しくすぐったそうな表情になった。
「銭湯としての営業を夜に限定すれば、子どもとは入替えで対応できるかな。そうなれば、脱衣場を練習場所や遊び場にできるし」
「そう捉え直せば、広さとしては充分ですわね」
エルリアが頷いたことで、事実上の方向性は定まった。
「悠真さん、どうかな?」
千尋嬢が期待に満ちた目を向けてくる。
「まずは期間限定で借り受けて、南口こもれび食堂のトライアル、かな」
「やった!」
「持ち主は、銭湯営業は続けた方がいいって理解でいいのか?」
「できれば、というくらいみたい。なら、決まりって伝えちゃっていい?」
「いや、設備の改修費用を見積もってからにさせてくれ。やるとなれば、こちらで負担するが」
「でも、前向きってことだよね?」
周囲を見回すと、それぞれから軽い頷きが返ってきた。
「ああ、そう伝えてもらって構わない」
千尋嬢は、湯船に飛び込みそうな勢いで喜んだ。さすがに休業中で湯は張られていないが、この人物なら空の浴槽でも飛び込みかねない。
エルリアは浴室の方を見つめながら、静かに言った。
「ここも、誰かの居場所になれるとよいですね」
「そうだな」
居心地よく過ごしてもらうためには、そこそこに派手な改修が必要になるだろう。その手筈を脳内で組み立てながらも、新たな拠点確保の方向性自体には心躍るものがあった。




