【1992年8月】
【1992年8月】
七月の参議院議員選挙は、成立したPKO法の是非に加えて、事理民本党で相次ぐ政治とカネにまつわる不祥事も争点となった。
宮川首相のもとで選挙戦を戦った事理民本党は、単独過半数には至らなかったものの、第一党としての立場は維持した。一方で、熊本知事を務めた細海氏が率いるヤマト新党は、四議席を獲得した。そのうちの一人が、後に都知事ともなる、テレビトキオのビジネス番組で司会者も務めた大池理裕子氏だった。
事理民本党では過半数は取れなかったものの、事光民の三党では過半数を確保したため、ひとまず政権は存続する形となる。
一方で、瑠美ちゃんママの一件は、不穏な展開となっていた。
派遣先となっていた小平にある建設会社は、西園寺法律事務所の所長……、利音さんのお祖母様が組合絡みでそこの会長と付き合いがあったとかで、あっさりと要請を受諾した上で、継続勤務を求める形でまとまった。
本来ならそれで話が済むはずだったが、そうはならなかった。派遣元であるテンポラリースタッフが、次の更新期での契約終了を告げてきたというのである。
派遣会社としては、弁護士を介して派遣先と直接交渉をしたことが癇に障ったのかもしれない。だが、派遣先と派遣社員が継続を望んでいるというのに……。
西園寺法律事務所は臨戦態勢に入ったようだが、ここで考えるべきは瑠美ちゃんママの収入確保である。
エルリアと相談の上で、こもれび食堂スタッフとしてスカウトをかけることにした。うちとしては、とりあえず三ヶ月、なんならずっとでもという提示となる。
とはいえ、いきなり俺が話を持ちかけても、警戒されるのは目に見えている。二人して連れ立って近づき、最初にエルリアが声をかけた。
夕方のこもれび食堂で、瑠美ちゃんのお母さんは、娘さんがお絵かきをしているところから少し離れて、所在なさげに座っていた。仕事帰りの服装はきちんとしているが、肩には疲れが滲んでいる。
「瑠美ちゃんのお母さま。少し、お話をよろしいですか?」
「はい」
エルリアの声も、応じる瑠美ちゃんのお母さんの返事も穏やかなものだった。
「お仕事のことを、部外者が軽々しく申し上げるべきではないとは思っています。ただ、瑠美さんがここで安心して過ごせるように、そのお母さまにも健やかに過ごしていただきたいと思っています」
相手の表情が、少しだけ揺れた。
「倒れるほどではありません」
「そうおっしゃる方ほど、倒れるまで耐えてしまうことがあります」
それは、どこか自分自身にも言い聞かせているような言葉だった。
瑠美ちゃんママは、しばらく黙っていた。視線の先では、彼女の愛娘が猫の絵に色を塗っている。黒い猫に、少し大きな黄色い目。たぶん、クロなのだろう。
「私が働かないと、生活できないんです」
「ええ」
「でも、働く時間が増えると、この子を見る時間がなくなります」
「そうですね」
「なにかを間違えたら、全部だめになる気がして……」
エルリアは、すぐには答えなかった。相手の感情が落ち着くのを待ってから、静かに言った。
「でしたら、しばらくの間、ここを足場にしてみませんか」
「足場……ですか」
「はい。次へ進むための場所です。逃げ場ではなく、立て直す場所として」
その言い方は、いかにもエルリアらしかった。そこで俺が話に加わることになった。
「提案として、ここの常勤スタッフとしてしばらく働いてもらいたいのです。仕事探しは、並行して進めてもらってかまいません」
「娘と共にだいぶお世話になっているのに、そこまで甘えるわけには……」
「利用していただいているからには、人手不足なのはおわかりと思います。ぜひお願いします」
「ですけど……、こちらは収益事業ではないのですよね」
「ええ。この事業をやりたいばあちゃんと、それを支えるエルリアを応援したいと思っています。ですので、次の仕事までのつなぎの間だけでも手伝ってもらえると、とても助かります」
「調理や清掃に従事すると考えればよいですか?」
「それらもそうなのですが……。一連の動きを、業務として回していく視点を加えたいのです。進学支援金制度の整備も進めたいし」
「支援金というのは、美羽ちゃんが使っているという?」
「はい、彼女の高校入学を支援したのが第一号です。あの子には、結果として新しい道を切り拓いてもらうことになります。大学に進むことを望むのなら、そちらも含めて」
「大学の奨学金というのは、無利子の貸与奨学金ですか?」
「いえ、返済不要の給付型です。生活費の一部支給も含めています。そちらは、今年の春から児童養護施設向けに募集していますが、生活が厳しい家庭の子にも広げていきます」
そこで、瑠美ちゃんママの表情がやや険しくなった。
「……あなたは、なにを求めているのですか」
「そうですね、ちょっとだけ良い世界になってほしいな、と。……あ、西園寺法律事務所からも、誘いが来るかもしれません。お好みで」
瑠美ちゃんママの口許に、かすかな笑みが浮かんだ。
「いえ、こちらでお願いします」
「よかったです。……エルリアに、実社会での体験からの知見を伝授してもらえると助かります」
「職場は幾つか経験していますので、そこで得たものはできる限りお伝えします」
話がまとまったところで、少し離れたところで絵を描いていた瑠美ちゃんが、とてとてと歩いてきた。
「お母さん、ここでお仕事するの?」
どうやら、聞こえていたらしい。母親は少し戸惑ったように笑った。
「しばらくね。皆さんのお手伝いをするの」
「じゃあ、帰るの遅くなっちゃう?」
その問いに、大人たちの空気が一瞬だけ止まった。
瑠美ちゃんにとって大事なのは、母親がそばにいる時間なのだろう。
「遅くならないようにするわ」
そう答えた母親の声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。エルリアは静かに頷いた。
この場所が、母娘にとっても立て直しの足場になるなら、それに越したことはない。こうして、頼りになる人物がスタッフとして加わってくれたのだった。
そして、この夏も技術検討会が開催された。
久世と結菜は東都工農大で研究室に入り、同級生と先輩を幾人か連れてきていた。結果として話は広がりを見せ、テーマも多様になっていた。
目新しいところでは、結菜の先輩が小水力発電の高度化に取り組んでいて、自然エネルギー、蓄電池の話がより深まる方向になっている。さらには市川の災害対応への興味と結び付き、まとまりを持ってきていた。
また、電動バイクの試作車も紹介された。そこから、かつて話題に出ていた自動運転についても議題となり、各自で興味を持ちそうな研究者に当たってみてもらえそうだ。センサーでの画像認識となると、工場での作業機械に方向性が近いかも、との話もあった。
陸上養殖と水耕栽培の循環モデルの試験装置も、持ち込まれていた。海水魚養殖向けの低塩分の水はまだ試行錯誤のようだが、海水魚が生きられる状態にはなっているそうだ。
蒼衣さんの素材開発については、生産技術系から実験手法についての提案も出たようで、小規模ながら交流は進んでいるようだった。それらの成果は、冊子にまとめることになっている。
参加する研究者や学生が増えたことで、専門書の取次業務も広がってきていて、さらに顧客を得られそうな流れとなっていた。こうなると、通販事業として動かしていくべきなのだろう。そちらは、航が中心になって体制づくりをしてくれている。
そんな中で、フラッシュの三浦社長からは、やや深刻な相談が持ち込まれた。




