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【1992年6月】

【1992年6月】


 弁護士事務所で修行中の利音さんから連絡が入った。瑠美ちゃんのお母さんに関する相談について、利音さんの祖母でもある所長さんが動くことになって、派遣会社に申し入れを行うらしい。


 やってきた利音さんとは、にゃんこハウスで話をすることになった。


「方向性はわかったけど、こちらではどう対応すれば?」


「なにかをしてほしいわけではないの。エルリアさんとあなたとの交流から知り合ったので、話を通しておきたくて」


「あ、なるほど。それはまた、律儀なことで。……概略くらいは聞いてもいいのかな?」


「そうね……、残業関連の話ということくらいまでは。エルリアさんはもう知っていると思うから」


 瑠美ちゃんのところは母子家庭だけに、やはり苦労があるのだろう。


「ただ、ちょっと難しい話でね」


 弁護士の卵である女子大生が、少し声を低くした。


「派遣元と派遣先が絡むから?」


「そうなの。本人は派遣会社と契約している。でも実際に指示を出しているのは派遣先。残業の扱いも、どこまでが指揮命令なのか、記録が残っているかで話が変わる」


「記録というと、タイムカードとか?」


「あるいは業務日誌とか、そういうものがあればいいけど、本人が持っているわけでもないし」


「確かにね……」


 前世の俺は、人生の大半を派遣社員として過ごしていた。微妙な職場も多かったが、徹底的に戦う必要までは生じなかった。それよりも、早めに離脱した方が傷は少ない。


 ただ、それは派遣就労が一般化した時代の話で、現状はそこまでではない。どう応じたものかと天井を見上げていると、利音さんの隣にクロがやってきて横たわった。


「本人は、派遣先と揉めたがってるのかな」


「そこが問題の本質なのよね。今の仕事で働き続けるためには、強い申し入れはしづらい。だから、まずは確認するまでに留めるべきでしょう。派遣会社がまともなら、そこで是正される可能性もあるから」


「まともじゃなかったら?」


「その時は所長が前面に出ることになるでしょうね」


 さらりと言うが、声には妙な重みがあった。西園寺事務所とのこれまでのやりとりは、ばあちゃんと利音さんとを介していて、俺はその所長さんとの面識はない。


「怖そうだな」


「そうね。味方なら頼もしいけど」


「敵には回さないようにするよ」


「ぜひそうして」


 小さく笑うと、クロが反応した。見上げてくる黒猫を撫でようかと、利音さんが手を伸ばしている。そうしながら、言葉が継がれた。


「ここまで話したからには、聞いておきたいんだけど、あなたの立ち位置はどうするの?」


「俺の?」


「こういう相談事は、これから増えていくと思うわよ。こもれび食堂をやっている以上は、避けては通れないでしょう」


 確かに、そうだろう。


 食事を出せば、空腹は和らぐ。だが、空腹の原因までは消えない。


 働き方、賃金、住まい、子育て。そこまで踏み込まなければ、本当には楽にならない人もいるのだろう。


 そこで、利音さんの手が触れそうになった瞬間、クロは身をよじって席から下りた。


「……まあ、場当たり的に善処していく感じかな」


「なによそれ。国会答弁じゃないんだから」


 利音さんが吹き出したときには、クロはもうキャットタワーの上部に駆け上がっていた。


 同様に母子家庭である美羽ちゃんのお母さんの体調はすっかり戻り、生活保護申請には至らずにまた働き出したそうだ。その状態なら行政対応に頼っていいようにも思うが、時代的にもそういう心境にはなれないのかもしれない。せめて応援させてもらおう。


 そして、利音さんはミケと戯れて帰っていった。娘であるクロの不義理を気にしたのか、されるがままになっているのが微笑ましい。


 そうそう、イヨカンとアマナツは無事にフラッシュの三浦社長に引き取られ、元気に暮らしている。そして、婿取り計画も進んでいて、健康で利発そうな猫として、工農大の府中キャンパスで暮らすオス猫を招こうかとの話が進んでいる。実行に移した場合には、いよいよ世代管理を考えていく必要が出てきそうで、部屋ごとの棲み分けをしていく流れとなるかもしれない。


 政治の話としては、いわゆるPKO国会での攻防が行われていた。


 PKOとは、国連の平和維持活動のことで、湾岸戦争で人的貢献が乏しかったとして欧米から強く批判された流れもあり、国際協調のために自衛隊を派遣しよう、というものである。


 自衛隊の保持や国外への派遣のハードルが高い一因として、占領下で作られた憲法の規定があるのに、なんとも理不尽なことだが、それを言っても仕方がない。


 一方で国内では、自衛隊の海外派遣を軍国主義の再来だと捉えるソーシャル党、コミュニズム党による徹底抗戦が展開された。牛歩戦術と呼ばれる、投票までの歩みを極限まで遅くする戦術のほかに、ソーシャル党の全議員辞職による妨害なども計画されていたという。


 デモ活動も盛んに行われたようだが、事態を動かすには至らなかった。


 そして、ソーシャル党の強硬路線を嫌ったのか、事理民本党、光明党、民本ソーシャル党による、いわゆる事光民路線が成立し、政権側がどうにか乗り切る形となった。


 国会が国際貢献で揺れる一方で、足元の経済も確実に軋み始めていた。経済分野においては、バブル崩壊の悪影響が出てきており、悲観論が勢力を増しつつあった。この後の惨状を知っている俺からすれば、単純な景気後退と捉える論者が多いのは、むしろ新鮮な驚きだった。


 創始会系では下落する不動産を狙っていく方向性のようだが、現状はまだ底ではないと思われる旨を伝えている。


 アメリカ株は、為替の変動を含めて考えると増減はあるが、順調に膨れ上がっている状態だった。そちらも期待できるので、不動産の高値づかみはある程度抑制できるだろう。


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