【1991年10月】
【1991年10月】
リクルーティング事件に端を発した政治改革を進めるため、衆院解散を目論んだとされる海野首相が総辞職に追い込まれた。世論調査の支持率はどこも過半となっており、前年の衆院選で安定多数を得た立役者なのだが、事理民本党、つまり与党内の反対派が主導する派閥の論理にねじ伏せられた形だろうか。政治の地殻変動は始まっているのだろうが、日々の暮らしの中ではまだ遠い話にも見えた。
替わって誕生したのが宮川総理である。彼もまた、リクルーティング事件で大蔵大臣を辞任した人物だったのだが。
この内閣が、バブル崩壊の後始末を担当することになる。党内基盤が弱い状態の彼らに期待するのが間違いだ、との話はあるが、初動が違えば話は変わってきていたとも思われる。
そんな中で、沢渡家に届けられたのは立ち乗り電動カートの試作品だった。さすがは結菜、仕事が早い。
もっとも、実際には近い研究をしていた先輩がいて、速度が遅すぎて実用的でないとの話になったものを仕立て直した状態らしい。
早速乗ってみたトミさんは、うれしげに歓声を上げた。
「あら、これは気持ちいいわねえ。動かすのも簡単だし」
はしゃぐ様子は、見ていて微笑ましい。
「歩くことも大事ですけど、閉じこもっちゃうよりは外出した方が気分がいいですものね」
そうコメントしたのは、結菜と同行した倉持さんだった。自身は機械音痴であるものの、運搬の補助を買って出てくれたそうだ。
龍栖神社までは細道と歩道でたどり着けるので、早速散歩してみる。こうなると、中にスムーズに乗り入れられるように、スロープを作ったほうがいいのかもしれない。
休憩モードに入ると、当然のように倉持さんの前に食事が供された。
「ちょ、ちょっと、なんで食いしん坊キャラみたいな扱いになってるんですかっ。いただきますけどもっ」
それを聞き流したエルリアが、結菜に声をかける。
「島崎さんも試されますか?」
「うん、お願い。……あれは、チョロQ?」
調味料入れに紛れて置かれていたホンダのシティが指さされる。
「そうなんです。ただ、動かなくなってしまって」
シティを手のひらに載せた結菜はどこからともなくドライバーを取り出し、分解を始める。
「歯車に糸くずが噛んじゃってたみたい。ゼンマイも無事だし、動きそう」
後ろに引っ張ると、俺に向けて放たれる。言葉通りに、なかなかの勢いで走ってきた。
少し離れた場所にいた常連の男の子が、何かを持って駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、これも直せる?」
捧げられたのはミニ四駆だった。祈りに似た視線を送られた結菜は、期待させすぎないようにか、やってみると呟いて分解を始めた。
ミニ四駆が走り出すと、周囲にいた子どもたちから小さな歓声が上がった。
「すげえ、本当に直った」
「お姉ちゃん、魔法使い?」
「魔法じゃなくて、分解して調整しただけ」
結菜はそう応じたが、子どもたちはあまり納得していなさそうだった。彼らにとっては、動かなくなったものが再び動くというだけで、充分に不思議なのだろう。
エルリアが少し離れたところから、その様子を眺めている。
「結菜さんは、物の治癒をされる方なのですね」
「物の治癒って言い方は初めて聞いたな」
「壊れたものを元に戻すのでしょう?」
「まあ、そう言われるとそうか」
人を癒やすエルリアと、機械を直す結菜。並べて考えると、妙にしっくり来るところがあった。確かに、意味合い的にはあまり変わらないのかもしれない。
「あのね。この子、元々は歩いてたんだけど、動かなくなっちゃったの」
続いて結菜が女の子から渡されたのは、クマのぬいぐるみ的なおもちゃだった。足がプラスチック製なので、おそらく機械仕掛けなのだろうが、現状はぬいぐるみ的に愛されていたらしい。
「ちょっと、中を見させてね」
裏蓋を開けると、子どもたちはその手元を覗き込みたいらしく、じりじりと近づいている。
「なにかが跳ねたりするかもしれないから、もうちょっと離れてね」
結菜がそう言うと、子どもたちは素直に一歩下がった。
「中って、こうなってるんだ」
「歯車がある」
「これ、学校で習う?」
「習うかもしれないし、習わないかもしれない」
答えたのは倉持さんだった。歯車はてこや滑車のあたりで少しは触れられるだろうか。
ドライバーが内部に突っ込まれ、糸くずなどが取り除かれる。さらに指先で中の部品の調整をした上で、結菜はクマをテーブルに立たせた。そして、囁くように少女に声をかける。
「話しかけてみて」
「クマちゃん?」
そのクマは声に反応して、ぎこちなくも確かな足取りで歩き始めた。ゆったりとした歩みだが、女の子の顔は輝いている。周囲からは、おおっ、という歓声が生じていた。
「感動的ですね」
倉持さんはそう述べながら、空になった食器を脇に寄せた。相変わらず、いい食べっぷりである。
結菜の前にも食事が供されると、修理工房は一休みとなった。倉持さんは、ほっこりとした表情で修理されたおもちゃで子どもたちが遊ぶ様子を眺めている。
「こんな施設が他にも広がればいいんですけど。特に南側にあると、うちの教授なんか喜びそう」
「お母さんなの?」
「いえ、奥さんを亡くされて単独の子育て中で、ばたばたされていて」
「距離もそうだけど、小金井は中央線で南北が分断されているものね」
作業をしながら結菜が指摘した通り、開かずの踏切は未だ健在である。
「工農大の農学部キャンパスは、でも、府中なんじゃなかったっけ?」
「武蔵小金井からバスで行く人が多いんです。教授もその一人で」
そんな話をしていると、女子高生二人組……、紗良ちゃんと美羽ちゃんがやってきた。土曜の午後ということもあって、私服姿である。
「あの、ちょっと質問よろしいですか?」
「いいよー、答えられることならなんでも」
朗らかに応じる倉持さんの横で、結菜も頷いている。
「大学について、お聞きしたくて……」
「おー、そっか、進学先ね。何年生?」
「一年です。まだ実感はわかないんですけど……。女性の先輩に聞いてみたくて」
結菜がふっと視線を向けた先には、二十歳を迎える女性陣二人の姿があった。放送大学を受講している桜庭さんと、高卒で社会に出ているエルリアは参考にしづらいのだろう。瑠夏は……、別の意味でちょっと規格外と捉えられているのかもしれない。
「あたしたちは理系の範疇に入るんだけど、二人はもう固めた?」
「文系だと思ってたんですけど……、実験をやってくれる先生がいて、理系も面白そうかなって」
「そうそう、あの先生、おもしろいよねっ」
聞けば、生徒の興味を惹く実験を多用する先生がいるのだそうだ。まるで大道芸のような口上というので、前世のテレビで見た、理科の実験をエンタメ化していた「でんじろう先生」を思い出していた。
「ただ、大学に進むかどうかはわからないんですけどね」
美羽ちゃんが明るい口調で応じる。
「そうなの?」
「はい、働きたくなるかもしれないですし」
大学への就学支援金の仕組みは整える予定だが、だからといって進学を無理強いするつもりもない。
彼女の高卒時点となる1993年は、世間の就職事情が土砂降りと評される状況になると思われる。ただ、翌年以降の氷河期よりは、まだましだろう。
一方で、大学に行けば氷河期真っ只中での就職となるわけで、いい未来を選んでほしいものだ。




