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【1991年4月】

【1991年4月】


 杉森紗良ちゃん、松本美羽ちゃんが揃って高校へ進学した。通う先は、沢渡家からごく近所にある都立小金井北高校となる。美羽嬢は、高校向けの就学支援金の適用第一号となった。


 制服を見せに来た彼女らは、そのまま手伝いに入ってくれた。高校生となったこともあり、二人はこもれび食堂の利用者兼スタッフとして、手伝ってくれた時間帯はアルバイト扱いにすることで整合が取られた。


 美羽ちゃんの希望にもよるが、よそでのアルバイトで時間を使うよりも、こもれびカフェで過ごしてもらって、高額ではないにしても給料が出た方が双方ハッピーな方向性となる。


 同時に、桜庭さんも正式にスタッフとして迎えられている。ただ、現状は親の扶養に入っているそうなので、その線にぶつからない設定としていた。


 令和の時代に騒がれていたいわゆる「103万円の壁」は、この1991年には100万円となっている。30年変わっていなかったとの話だったので、おそらく1995年頃に3万円引き上げられて、2025年まで維持されるのだろう。


 同時に、近所の農家の奥様である、鷹岡さんが参加してくれた。気のいいご婦人で、子どもへの当たりは柔らかいが、しっかりと注意もしてくれて頼もしい。また、ばあちゃんと波長が合うのも助かる状態だった。


 鷹岡さんのところは東京うどが主力作物で、畑もやっておられるそうだ。元々は、不揃いの野菜を分けてもらっていて、そのついでに野菜の下処理や、調理の手伝いまでしてくれていた人物である。特に人手不足の時期に助かったので、それなら夕食の時間帯に来てもらえたら、との話がまとまったのだった。旦那さんは、夕方時点で晩酌の準備まで整えれば手がかからないそうで、安定した状況なのだろう。


 にゃんこハウスの手伝いから戻ると、見つけてやってきたのは美羽ちゃんだった。


「悠真さん、改めまして就学支援金、ありがとうございました。お母さんがくれぐれもよろしくと言っていました」


「美羽ちゃんがきっかけじゃなかったと言ったら嘘になるけど、経済的理由で学業を諦める人を支援する構想は以前から持っていたんだ。逆に、踏み出させてくれて礼を言うよ。恩義なんてまったく感じないで、自由に生きてね」


「恩に感じないのは、無理な相談ですねえ」


 くすくすと笑う感じは微笑ましいが、あまり重く捉えてほしくないのも確かだった。


 続いてやってきた紗良ちゃんも、青いブレザーの制服姿である。その衣装は、日々の風景の中では馴染み深いものだが、知り合いが着ていると新鮮に映る。


「悠真さんのところは、制服なかったんですよね。どうでしょう?」


 くるりと回ると、背中の縦の割れ目が特徴的である。


「うん、可愛らしいね」


「ありがとうございます」


 そこから、なぜか互いに突っつき合いを始めた二人は、厨房へと戻っていった。女子高生の感覚はわからない。


 4月で年度の変わり目となるが、目立つのは東京都庁の新宿移転と、牛肉とオレンジの輸入自由化だろうか。前世の終盤ではトライアンフ大統領の二期目で、トライアンフ関税だなんだと騒がしかったが、この頃の日本もまた押され気味である。まあ、結果として牛肉が安く手に入るようになっていくのも確かなのだった。


 ばあちゃんの体調不良は長引いていて、今日も家で過ごしている。当初は周囲に負担をかけてしまうと心苦しそうだったが、体制が整ってきており、少し安堵してくれたようだ。


 人件費を切り詰める必要はないのだが、扶養の関係で給料を出しすぎてもまずい、というメンバーも多い。少し余裕を持った運営を目指すべきなのだろう。


 この日も、エルリアが厨房から外れて、子どもたちの遊び相手を務めている。……そのはずなのだが、なにやら幼い娘さんを連れたお母さんと話し込んでいた。


 と、こちらにも話しかけてくる人物がいた。ほぼ初接触となる自習王子……、貴也少年である。


「なあ、ちょっと聞いていいか?」


「おう、かまわんぞ」


 ぞんざいな言葉遣いではあるが、長幼の序を気にするようなたちでもない。前世では、年下の正規雇用組の指示を受けていたし、通算年齢は何歳かとか考えると、さらにややこしくなる。


「高校の就学支援金ってのは、誰でも申請できるのか?」


「ひとり親家庭か生活保護世帯の子どもであることを要件にしている」


「両親がいるけど、生活が苦しかったら?」


「現状は対象外だが……、所得が低くても、生活保護までは受けていない場合は考えられるな。……住民税非課税世帯あたりまで加えてもいいかも、とは思っている」


「所得はあるけど、困窮している場合は?」


 少年の目には、冷ややかな炎のような陰影がある。この人物の身なりは、お世辞にも清潔とは言えない状態である。


「理由によるが……、親の浪費だとしたら、正直難しい」


「じゃあ、駄目か……」


「誰の話なんだ? 君の家のことなら、話してみてくれ」


「壺さ」


「壺……?」


「なんだかご利益のある高価な壺やらお札やら、よくわからんものが家に溢れてる」


「統合協会か……」


「知っているのか。日本は悪魔の国で、朝鮮半島の人たちにお詫びをしなきゃいけないんだってさ。一緒に土下座させられたよ」


 吐き捨てるような口調である。


「君は……、統合協会の教義を信じていないのか?」


「どうやったら信じられるのか、教えてほしいね。……いや、小学校に上がるまでは、特に疑問には思わなかった。ただ、周囲を見れば、自分の境遇の異常さはわかるさ」


 だいぶ早い時期に、宗教二世としての精神的な呪縛からは免れたようだ。生活面では、このこもれび食堂が退避場として役立ったのかもしれない。


「親は、高校に行くことは同意してるのか?」


「駄目だとは言わなくても、金が出てくるかはわからない。仮にどうにか凌げても……。大学は無理さ。そこで、逃げるしかないんだろうな」


 既に諦めの気配が漂っている。ここは思案のしどころである。


「就学支援金の要件に、困窮していることを加えよう」


「あの連中が、自分たちが困窮状態だと認めるとは思えない」


「本人申請ができるようにする。銀行口座は持っているかい?」


「うん。じーちゃんが作ってくれたのがある」


「困窮しているとして君から申請してくれれば、学費と生活費をそこに振り込もう。それでどうだ?」


「そうなったら助かるよ。……それを溜め込んでおいて、実際の高校の費用はどうにか親から引き出して、大学の学費に回してもいい?」


「それは構わんが、大学向けの就学支援金も設定する予定だぞ?」


「美羽って子のためにか?」


「その上の世代で、支援の必要がある子が見つかれば、すぐにでも……、いや、とりあえず近場の養護施設出身者向けはすぐに手当した方がいいか。来年から設定するとして……。でも、無条件に学費と生活費まで出すとなると、逆転現象が起きちゃうな」


「そこそこの家庭より、施設出身の方が優遇されるとなれば、やっかみはひどいかもね」


「だなあ。……それに、特に大学で勉強したいわけでもない状態で進学してもなあ」


「成績優秀者に限る、とすりゃあいいんじゃ?」


「高校の成績でか?」


「現役の一流大学合格が条件だ、でいいっしょ。受験費用も出してやれば?」


「……よさそうだな」


 ぞんさいで、人と関わろうとしない少年なのかと思っていたが、どうやら事情を抱えて苦境にあったようだ。あるいは久世あたりには打ち明けているのだろうか。


「ただ、児童養護施設出身者のうち、成績優秀者以外はそのまま社会に放り出すことになっちゃうか」


「抵抗あるなら、濃淡をつけりゃいいんじゃないのか? 優秀者は手厚く、そうでもないのは、そこそこに」


「それでも、一定の助けにはなるな。……就職組には生活支援金を渡せばいいか」


 そのあたりで、自習王子は興味を失ったようで、参考書に視線を移していた。はっきりしていて、好ましい。


 いずれにしても、まずは近くにある児童養護施設出身者向けに、来年度から支援をするとしよう。


 そんなことを考えていると、別の人物がやってきた。人懐っこい表情のその少年は、俺に会釈をして自習王子こと貴也少年の斜向かいに座ると、カバンから教科書を取り出した。中学生くらいだろうか? どうやら、第二自習王子の出現であるようだ。


 一人だけだと特殊例で済まされるが、複数となれば潮流が生まれるかもしれない。勉強がすべてではないけれど、現状では学歴が収入に結びつきやすい構造であるのは間違いない。いい傾向だろう。


 室内に入ってきたミケにあいさつをしていると、声をかけてきたのはエルリアだった。


「何の話でしたの?」


「ああ、就学支援金に向けての相談だった。児童養護施設出身者にも、支援を広げようとしていて」


「貴也くんが、そう提案したんですの?」


「いや、本人の相談から、制度について相談する形になってね」


「そうでしたか。……こちらは、派遣で働いている方のお悩みを聞いておりましたの。生活が苦しいそうでして」


「あそこの家も母子家庭だったか。子育ては手がかかるだろうしなあ」


 ただ、困っているからと安易に雇って解決、とはしない方がよいのだろう。


「このこもれび食堂があって、どうにか生活が回っているそうでした」


 淡々とした口調だが、誇らしさも滲んでいるように感じられた。


「……それにしても、紗良ちゃんと美羽ちゃんが高校生になるとは、早いものですね」


「そんなに年齢は変わらないだろうに」


「そうなんですが、自分が進級していないので、感覚に違いが出てしまっているのかも。社会でも、春から色々と変わりましたね」


「牛肉とオレンジの自由化は、インパクトあるよなあ。牛肉が安く手に入るのは、バリエーションが増えて助かるが」


「警戒する向きもあるようです」


「まあ、最初はそうかもな」


 実際、国産信仰によって外国産の牛肉、オレンジを忌避する動きは見受けられる。令和の時代には、国内産は高級路線に舵を切ったこともあって、どちらもわりと棲み分けができていたようだったが。


「もう一つ挙げるのなら、掃海艇の派遣でしょうか」


「決まりそうだな。イラク戦争後の機雷の除去は、確かに必要だろうし」


「前年のPKO法案と同様に、反対運動はだいぶ強いようですね」


「去年の国会審議は大騒ぎだったもんな。抗議活動も活発なようだし」


「美羽ちゃんによれば、中学の授業でも取り上げられたとか。……ただ、自衛隊が違憲だとする方々は、どこまで本気で自衛隊を解体すべきと思っているのでしょうか?」


「どうなんだろうかなあ……。本気で非武装を貫き通せるとは、なかなか考えづらい筈なんだけど。ま、政党レベルでは、自分たちが政権を獲得するはずもないから、何を言っても問題ないとでも思っているのかも」


 前世通りなら、いずれソーシャル党が首相を輩出することになり、党としての国家観が深刻に揺さぶられ、自壊していく流れとなる。ただ、それはもう少し先の話である。


「市民活動レベルでは?」


「戦前の日本で軍隊が悪いことをした、という歴史観が広まっているから、とにかく軍国主義の芽を摘むことが優先だと考えているのかな」


「悠真はどう考えます?」


「ソ連崩壊前は、日常的に戦闘機や爆撃機が東京を目指してやってきていた。米ソが限定核戦争となった場合に、ソ連が北海道を侵攻する可能性だってゼロじゃなかった。海上での紛争の可能性もあったわけだし、武装解除は現実的ではなかったろう」


「でしたら、どうして……」


「冷戦期には、日本国内でも東側……、つまり共産・社会主義の……共産主義陣営が影響力を高めようとする動きがあったんじゃないかな」


「東西陣営の代理戦争的に、西側に組み入れられている政府と、東側に支持された反政府勢力が対峙していたということですか?」


「あまり単純化するべきじゃないが、そういった要素もあったはずだ、ということさ。一方で、純粋に戦争を忌避する思いから、そういった方向性に行き着く人もいただろうし」


「……複雑ですね。その辺りは、やはりもう一段深くまで学ばなくてはいけないようです」


「ああ。そこは、学校では微妙な問題として、扱いづらいところだから、自力で情報を集める必要がある。やっぱり手っ取り早いのは、旭日新聞と経産新聞をじっくり読み比べることかな。図書館なら、縮刷版とかもあるから」


 令和の時代には、各マスコミがネットに記事を出すようになっていたが、この時代には紙でしか読むことができない。そのため、出身家庭でどの新聞を購読しているかによって、得られる情報はだいぶ偏るのが通常だった。


「わからないところがあったら、質問してもよいですか?」


「もちろん。ただ、俺も偏っていると思うから、複数人に聞いてみた方がいい」


「心得ました。子どもと触れるからには、芯になる考えを持っておきたいのです」


 そう捉えてくれるのは、心強いことだ。


「ところで……、自習王子が二人になったみたいだけど」


「貴也くんが二人……? ああ、直哉くんですわね。あの子は、瀬尾直哉くん。最近、同じ場所で勉強しています」


「仲はいいのかな?」


「いえ、貴也くんはあまり相手にしていないですね。ただ、互いに邪魔にはしていないようです」


「なら、いいのか……。ふたりの興味の在り処は似てる?」


「直哉くんは、一学年下というのもありますが、学校の勉強を中心にしているようですね。対して、貴也くんは……」


「あれは、知識欲モンスターだからな。勉強と言っても、方向性が違うわけか」


「そうかもしれません」


 話に区切りがついたところで、エルリアは親しい年少の少女たちの方へと歩を進めた。梨乃さんと鷹岡さんも含めて、体制が固まってきたのは確かだった。エルリアが二人の方に向けた視線は、柔らかなものだった。


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