白虎編 第二十話 【復活】
皇都の西外れ。
一行が西の封印の祠を訪れるのは、これが二度目だった。
前にここへ来た時、毒島だけは祠の手前に取り残された。
何かに拒まれたように、どうしても先へ進むことができなかったのだ。
けれど今回は違った。
以前は足を踏み入れた瞬間に全身を押し返した見えない境も、今は何事もなかったかのように五人を通した。
毒島は、かつて自分だけが置き去りにされた場所で一度足を止めた。
地面に目印があるわけではない。
それでも、そこがどこだったのかは覚えていた。
「今回は通すってか」
小さく吐き捨てる。
羅馬が振り返った。
「どうした?」
「何でもねえ」
毒島はそう答え、先へ進んだ。
仁虎。
亜呂。
羅馬。
毒島。
そして、ご隠居。
旅籠ひぐらしには、涅央や幽解夏、奏々世、ましろ、源六たちが残り、五人の帰りを待っている。
白虎を迎える場には、必要な者だけでよい。
ご隠居はそう言った。
仁虎の背には、白虎の魂が宿る。
亜呂は朱雀。
羅馬は青龍。
ご隠居は玄武。
毒島は儀式を見届け、その変化を確かめるために同行していた。
石段を登り切ると、見覚えのある古い祠が現れた。
その背後には、大きな岩壁がそびえている。
前回は、その先へ続く道があることすら分からなかった。
だが今回は、五人が揃って祠の前に立った途端、岩壁の奥から低い音が響き始めた。
ご隠居が杖をつく。
「どうやら、今度は歓迎されとるようじゃの」
岩壁の表面に、淡い光が走った。
長い年月に削られながらも、そこには四方を守る神獣の姿が刻まれていた。
東に龍。
南に鳥。
西に虎。
北に亀と蛇。
中央には、人の手ほどの大きさの窪みがある。
ご隠居がその窪みへ掌を当てた。
地の底から、ひときわ深い音が響く。
岩壁の亀裂が光を帯び、隠されていた石扉がゆっくりと左右へ開いていった。
その先には、円形の石室があった。
中央には祭壇。
床には四神を象った古い紋様が刻まれている。
以前は辿り着くことすらできなかった場所。
その最奥へ、今は誰一人欠けることなく足を踏み入れている。
それでも、喜ぶ者はいなかった。
石室の静けさが、これから起こることの重さを嫌でも思い知らせていた。
ここへ来るまで、話すべきことは幾らでもあったはずだった。
だが、いざ儀式の場を前にすると、どんな言葉も軽く思えた。
毒島が石室を見回し、低く言った。
「もう一度だけ確認する」
仁虎が毒島を見る。
「始めれば、途中で止められる保証はねえ」
「分かってる」
「白虎がどういう形で顕現するかも分からねえ」
「それも聞いた」
毒島は一瞬、言葉を止めた。
そして、仁虎の背へ視線を向ける。
「お前の身体を、器として使う可能性がある」
亜呂の指先が震えた。
仁虎は表情を変えなかった。
「仁虎という人格が、そのまま残る保証もない」
石室の中へ、毒島の声だけが響いた。
以前から聞かされていたことだった。
可能性にすぎない。
毒島はそう言っていた。
だが、誰にも否定する材料はなかった。
白虎が復活すれば、仁虎は仁虎ではなくなるかもしれない。
姿は残っても、中身が白虎へ置き換わるかもしれない。
あるいは、姿形すら消えてしまうかもしれない。
亜呂は何度も、その光景を想像した。
父の顔をした何者かが立っている姿を。
父の声が、もう二度と聞けなくなる時を。
それでも、ここまで来た。
仁虎もまた、それを受け入れている。
「毒島」
仁虎が静かに言った。
「もういい」
「だが――」
「覚悟は決めてる」
毒島は口を閉ざした。
仁虎は亜呂へ顔を向けた。
「亜呂」
「……はい、父上」
亜呂は顔を上げた。
いつものように答えたつもりだった。
だが、声は僅かに震えていた。
仁虎は娘を真っ直ぐに見つめた。
何かを言おうとして、少し黙った。
口数の多い男ではない。
ましてや、自分の心を言葉にすることなど滅多にない。
だからこそ、亜呂には分かった。
これが、本当に最後の言葉になるかもしれないのだと。
仁虎の大きな手が、亜呂の頭へ置かれた。
幼い頃から、何度もそうしてくれた手だった。
褒める時も。
叱った後も。
言葉にできない時、父はいつもこうして頭へ触れた。
「俺の姿形がなくなっても」
亜呂の瞳が揺れる。
「魂は、お前を守ってやる」
仁虎はゆっくりと言った。
「だから、心配するんじゃねえ」
亜呂は唇を噛んだ。
涙を流せば、父の覚悟を鈍らせるような気がした。
止めてしまえば、これまで皆が繋いできたものを無駄にする。
分かっている。
分かっているからこそ、苦しかった。
「……はい」
ようやく、それだけを答えた。
仁虎の手が、少しだけ強く亜呂の頭を撫でた。
「私は……」
声が詰まる。
亜呂は息を整えた。
「私は、父上の娘です」
仁虎の目が細くなる。
「ですから……大丈夫です」
最後まで言い切った。
笑おうとした。
けれど、その笑顔はひどく歪んでいた。
羅馬は何も言えなかった。
大丈夫だと励ますこともできない。
帰ってくると約束することもできない。
ご隠居もまた、黙って二人を見ていた。
毒島は目を逸らした。
自分が口にした可能性が、この父娘に別れを告げさせている。
理屈としては必要だった。
だが、それが正しかったかどうかは、今の毒島には分からなかった。
やがて、ご隠居が杖の先で床を一度叩いた。
乾いた音が響く。
「始めるぞ」
仁虎が祭壇の中央へ立った。
亜呂は南の紋へ。
羅馬は東の紋へ。
ご隠居は北の紋へ立つ。
西の紋だけが、仁虎の足元まで伸びていた。
「亜呂」
ご隠居が呼ぶ。
亜呂は首筋へ手を当てた。
そこに刻まれた魂紋が、じわりと熱を帯びる。
赤い光が浮かび、火の粉のように舞い始めた。
朱雀の翼を思わせる炎が、石室の天井へ広がっていく。
「羅馬」
羅馬が目を閉じる。
風が生まれた。左腕の魂紋が浮かび上がる。
閉ざされた石室の中に、どこからともなく青い風が吹き抜ける。
その流れは円を描き、仁虎の周囲へ集まった。
最後に、ご隠居が杖を床へ突いた。
黒とも深緑ともつかぬ光が、北の紋から静かに広がる。
床の亀裂を埋めるように。
崩れかけた道を支えるように。
石室全体が低く震え始めた。
仁虎の背中が、白く輝いた。
衣の上からでも分かるほど、白虎の依代紋が強く浮かび上がる。
仁虎が歯を食いしばった。
背中から何かを引き剥がされるような痛みが走る。
亜呂が父上と叫びそうになり、堪えた。
今、止めてはいけない。
仁虎の背から白い光が立ち上った。
それは虎の頭部となり、肩となり、巨大な前脚となって現れる。
白虎。
これまで幾度となく仁虎を守り、時に声だけを届けてきた神獣。
その姿が、光の中で形を成していく。
だが、まだ実体ではない。
青龍の風が白虎の魂を包む。
朱雀の炎が、その帰る先を照らす。
玄武の力が、現世へ続く道を支える。
白虎の魂が、仁虎の背から少しずつ離れていった。
依代紋が薄れていく。
仁虎の身体が大きく揺れた。
「父上!」
今度は、亜呂の声が石室に響いた。
白い光が爆ぜた。
視界が完全に塞がれる。
轟音。
吹き荒れる風。
石室全体が揺れ、床の紋様が一斉に輝く。
羅馬は腕で顔を庇った。
毒島は祭壇へ目を凝らした。
ご隠居だけが、杖を突いたまま動かない。
やがて、音が消えた。
風も止んだ。
白い光が、ゆっくりと薄れていく。
祭壇の中央に、人影があった。
亜呂が息を呑む。
仁虎だった。
儀式の前と変わらぬ姿で、そこに立っている。
だが、誰もすぐには駆け寄れなかった。
毒島が眉を寄せた。
「……失敗か?」
仁虎の背にあった依代紋は消えている。
だが、白虎の姿はどこにもなかった。
祭壇の上にも。
石室の隅にも。
白虎の巨大な気配すら感じられない。
亜呂は動けなかった。
目の前にいるのが、本当に父なのか分からない。
仁虎の身体を使い、白虎が立っている可能性もある。
「……父上?」
亜呂が恐る恐る呼びかけた。
仁虎はゆっくりと顔を上げた。
右目が開く。
そこには、人のものではない金色の瞳があった。
縦に細い瞳孔。
獣の目。
亜呂の肩が震えた。
羅馬も息を止める。
毒島が一歩前へ出た。
「お前は誰だ」
仁虎の眉間に皺が寄った。
「……あ?」
「名前を言え」
「ぶっ殺すぞ、毒島」
毒島は黙った。
羅馬が小さく息を吐く。
「仁虎さんだ」
「当たり前だ」
仁虎は不機嫌そうに言った。
その声も。
その顔も。
毒島へ向ける殺気も。
間違いなく仁虎だった。
亜呂の目から、堪えていた涙が溢れた。
「父上……!」
駆け寄ろうとした、その時だった。
「待て」
毒島が周囲を見回す。
「仁虎は残った」
「だが、白虎はどこだ」
再び、静寂が落ちた。
仁虎も背後を振り返る。
何もいない。
依代紋は消えている。
白虎の魂が背中から抜けたのは間違いない。
それなのに、白虎はどこにも顕現していない。
「駄目か……」仁虎が呟く。
羅馬は祭壇へ目を落とした。
「失敗したのかな」
ご隠居は答えなかった。
仁虎が右目を押さえる。
「妙な感じはする」
「白虎の声は?」
毒島が問う。
「聞こえねえ」
その答えに、亜呂の表情が曇った。
仁虎は助かった。
だが、白虎は戻らなかった。
誰もが、そう思いかけた。
その時。
「……父上」
亜呂が小さく言った。
「何だ」
「その……後ろに…」
仁虎が振り返る。
祭壇の陰。
仁虎の踵から少し離れたところに、何かが座っていた。
白い毛並み。
黒い縞。
大きな青い瞳。
丸みを帯びた小さな身体。
一匹の子虎が、ちょこんと座っていた。
子虎は五人を見回し、不思議そうに首を傾げた。
誰も言葉を発しなかった。
亜呂が震える声で呼ぶ。
「……もしかして…白虎様?」
「うん?」
子虎が答えた。
軽い。
あまりにも軽い声だった。
仁虎の顔が険しくなる。
「お前が、白虎か」
「そうだよ」
白虎は当然のように答えた。
亜呂の目が大きく見開かれる。
涙で濡れていた瞳が、別の意味で輝き始めた。
「か……」
羅馬が亜呂を見る。
「亜呂?」
「可愛い……」
亜呂は両手で口元を覆った。
先ほどまで父との永別を覚悟していた娘の顔ではなかった。
完全に目が白虎へ吸い寄せられている。
白虎は自分の前脚を見た。
「この姿、変かな?」
「とんでもございません!」
亜呂が即答した。
「大変愛らしく、気高く、神々しく、それでいて抱きしめたくなるお姿です!」
「最後のは神獣への感想としてどうなんだ」
仁虎が呆れた声を出す。
亜呂はすでに白虎の前へしゃがみ込んでいた。
白虎は嫌がる様子もなく、亜呂の差し出した手へ鼻先を寄せる。
亜呂の目がさらに輝いた。
仁虎は白虎を睨んだ。
「…どういうことだ」
白虎が仁虎を見る。
「何が?」
「何がじゃねえ」
仁虎は自分の右目を指した。
「俺が残って、お前がそこにいる」
「ああ、そのこと」
白虎は尻尾を一度振った。
「最初はもちろん身体をそのまま借りて、顕現するつもりだったよ」
石室の空気が止まった。
亜呂がゆっくり白虎を見る。
羅馬も毒島も無言になった。
皆が恐れていたことは、間違っていなかったのだ。
仁虎は、本当に消えるはずだった。
「でも気が変わったんだ」
白虎はあっさりと続けた。
「なんか、ちょっと可哀想になってさ」
「……可哀想?」
仁虎の額に青筋が浮かぶ。
「うん」
白虎は亜呂を見る。
「亜呂ちゃんがあんまり悲しそうだったから」
亜呂の瞳から、また涙が零れた。
白虎は仁虎へ視線を戻す。
「それに、仁虎くんも格好つけてたけど、娘と離れたくなさそうだったし」
「誰がだ」
「君が」
「…殴るぞ」
「僕、神獣だよ?」
「知るか」
白虎は楽しそうに笑った。
「だから、身体は返すことにしたんだ」
「代わりに右目だけ、融合させてもらったよ」
仁虎は右目へ触れた。
「勝手に決めやがって」
「でも、この方が良かったでしょ?」
白虎は立ち上がり、仁虎の足元まで歩いていく。
「でも戦わなきゃいけない時は、身体を借りることもあるけどね」
「それならそうと先に言え」
「やってみるまで、僕にも分からなかったんだよ」
毒島が口を開く。
「つまり俺の見立ては、完全に外れていたわけじゃ――」
仁虎の拳が毒島の頭へ落ちた。
鈍い音が石室に響く。
「痛ってえ!」
「お前のせいで、こっちは遺言まで残したんだぞ」
「可能性の話だって言っただろ!」
「言い方ってもんがあるだろうが!」
羅馬が横を向いた。
肩が震えている。
仁虎が睨む。
「羅馬」
「いや、ごめん」
「笑ってるだろ」
「わ、笑ってないよ」
「こっち向け」
羅馬は振り返った。
完全に笑っていた。
「だって……」
「仁虎さん、あんなに格好よく別れを告げてたのに」
「白虎が『可哀想になってさ』って……」
亜呂も涙を拭いながら、僅かに笑った。
仁虎の顔が引きつる。
「お前まで笑うな」
「申し訳ございません、父上」
亜呂はそう言いながら、白虎をそっと抱き上げた。
白虎は抵抗しなかった。
むしろ居心地よさそうに、亜呂の腕へ収まった。
「白虎様……ありがとうございます」
亜呂が小さく言う。
白虎は亜呂を見上げた。
「どういたしまして」
仁虎が白虎へ目を細める。
「それにしても」
「何?」
「随分、口調が違うじゃねえか」
「そう?」
「俺が聞いた声は、もっとこう……」
仁虎は言葉を探した。
「威厳がある感じだった」
白虎は少し考え、納得したように頷く。
「ああ、それはたぶん」
「僕の念を、君の中にある『白虎』という概念で再生したからじゃないかな?」
仁虎は黙った。
「……俺のせいかよ」
「うん。たぶんね」
白虎は楽しそうに言った。
羅馬が、亜呂の腕に収まった白虎を見た。
「でもさ。身体がなかったから、仁虎さんを器にするつもりだったんだろ?」
「うん」
「じゃあ、なんで今は子虎の姿なの?」
白虎は、自分の小さな前脚を見下ろした。
「身体を作ったんだよ」
「作った?」
「みんなが現し世まで道を繋いでくれたからね。霊力をかなり使うけど、このくらいの身体なら作れるかなって」
白虎は、その場でくるりと一回転してみせた。
「やってみたら、できた」
毒島の眉間に皺が寄る。
「できるかどうかも分からねえことを、儀式の最中に試したのか」
「そうだよ?」
「行き当たりばったりにも程がある」
毒島は頭を抱えた。
「上手くいったんだからいいじゃない」
白虎は欠伸をした。
仁虎は深く息を吐いた。
白虎は亜呂の腕から仁虎へ向き直る。
「まあ、それはともかく」
小さな前脚を仁虎へ差し出した。
「今日から君と僕は相棒さ!」
仁虎は差し出された前脚を見下ろした。
「相棒かどうかは、まだ分からねぇ」
白虎は首を傾げる。
「君は僕で、僕は君なんだ」
「もう相棒みたいなものじゃない」
仁虎はやれやれとため息をついた。
「これから世話になるけど、よろしく頼むね!」
白虎は仁虎を見上げながら言った。
「誰が世話すると言った。」仁虎が白虎を睨む。
白虎は亜呂を見上げる。
「亜呂ちゃんがしてくれるんじゃない?」
「もちろんです、白虎様!」
「お前は即答するんじゃねえ」
亜呂は白虎を抱いたまま、満面の笑みを浮かべている。
つい先ほどまで流していた涙の跡が、まだ頬に残っていた。
だが、その顔はもう悲しんでいなかった。
「……まあ、仕方ねえ。家へ置いてやる。」
仁虎がそう言うと、白虎は尻尾を振った。
「たくさん、お世話しますね!」
亜呂は完全に飼うつもりだ。
白虎は、ふと亜呂の首筋へ目を向けた。
「朱雀さん、久しぶり」
亜呂が驚いて自分の魂紋へ触れる。
首筋の奥で、赤い光が僅かに瞬いた。
白虎は次に羅馬を見る。
「青龍さんも。元気だった?」
羅馬の魂紋も、それに応えるように淡く輝く。
羅馬が左腕を見ながら言う。
「分かるの?」
「うん。まだ眠そうだけどね」
白虎は最後に、ご隠居へ顔を向けた。
「あ」
青い瞳が細くなる。
「玄武さん? 久々!」
ご隠居は眉一つ動かさない。
「こりゃまた、可愛らしい姿になったもんじゃ」
「この方が力を使わなくて済むからね」
白虎は何でもないことのように答えた。
「さて」
ご隠居が杖を持ち上げる。
「待っとる者もおる」
「帰るとするかの」
仁虎は石室の出口へ向かって歩き出した。
「……帰るぞ」
亜呂が白虎を抱いたまま、その後を追う。
「はい、父上」
羅馬と毒島も続いた。
最後に、ご隠居が石室を振り返る。
役目を終えた床の紋様は、静かに光を失っていた。
*
旅籠ひぐらしの戸が開いた時、待っていた面々は一斉に立ち上がった。
「仁虎さん!」
涅央が真っ先に声を上げる。
奏々世も、ましろも、幽解夏も、源六も、無事に戻った仁虎の姿を見て安堵した。
その直後。
全員の視線が、亜呂の腕の中へ集まった。
「……何、その子」
奏々世が呟く。
白虎が顔を上げる。
「白虎だよ」
一瞬の沈黙。
そして。
「きゃああああ!」
旅籠ひぐらしが揺れた。
「可愛い!」
「触ってもいいですか!」
「抱いてもよろしいでしょうか!」
女性陣が一斉に集まってくる。
亜呂は白虎を守るように抱きしめた。
「白虎様はお疲れなのです!」
「順番にお願いいたします!」
「亜呂ちゃん、さっきからずっと抱いてるでしょう!」
ましろが頬を膨らませる。
幽解夏は少し離れたところで煙管をふかしながら笑う。
「いやぁ、こりゃ可愛いねぇ」
そう言いつつ、誰より自然に白虎の頭を撫でていた。
「幽解夏さん!」
「早い者勝ちだろう?」
白虎は女性陣に囲まれ、満更でもなさそうだった。
「僕、人気者だね」
仁虎が腕を組む。
「調子に乗るな」
源六が白虎をじっと見る。
「猫ではないのでありますか?」
「虎だ」
仁虎が答える。
「白虎だよ」
白虎も答える。
源六はもう一度、小さな身体を見る。
「思ったより小さいでありますな」
白虎の耳が少し下がった。
「この姿は力を温存する時に使うんだ」
「戦う時は、あっちの姿になることもあるよ」
「条件次第だけどね」
「条件とは?」
涅央が尋ねる。
白虎は首を傾げた。
「その時にならないと分からない」
「僕、ずっと眠ってたからね」
毒島が額を押さえながら呟く。
「神獣ってのは、もっとこう……」
「厳格で、近寄りがたいものだと思ってた」
「失礼だね、君は」白虎がまた欠伸をする。
亜呂がすぐさま毒島を睨んだ。
「ほんとに失礼です! 謝ってください!
白虎ちゃんに!」
「白虎ちゃんて!」
羅馬が吹き出した。
亜呂は自分の言葉に気づき、目を見開く。
白虎は嬉しそうに尻尾を振った。
「白虎ちゃんでもいいよ」
「光栄です!白虎ちゃん!」
仁虎が深くため息をついた。
その夜。
旅籠ひぐらしでは、急遽、白虎復活を祝う宴が開かれた。
奏々世が次々と料理を運び、羅馬が酒を注ぐ。
誰が言い出したのか。
いつの間にか、その宴は――
「白虎復活祭」
と呼ばれていた。
「白虎様、お団子はいかがですか?」
亜呂が皿を差し出す。
「食べる!」
仁虎が眉を寄せる。
「神獣も団子食うのか」
「今日から食べることにしたよ」
羅馬が感心したように呟いた。
「神獣って飯食うんだな……」
「食べなきゃ身体を保てないんだよ」
白虎が団子を頬張りながら言う。
「そりゃそうか」羅馬が笑う。
奏々世が、白虎の前へ別の皿を置いた。
香ばしく焼いた肉を、小さく食べやすい大きさに切り分けた料理だった。
「白虎様用に作りました」
白虎は目を輝かせた。
一口食べる。
耳がぴんと立った。
「美味しい!」
奏々世が嬉しそうに微笑む。
「たくさん召し上がってくださいね」
「うん! ありがとう!」
白虎は夢中になって肉料理へ舌鼓を打った。
その姿を見て、亜呂は再び目を輝かせる。
「白虎様、お口元に……」
布で口元を拭おうとする亜呂を、仁虎が呆れた顔で見る。
「お前、完全に世話係になってんじゃねえか」
「当然です」
「何が当然だ」
「今日から仁虎くんは僕の飼い主だからね」
白虎が肉を頬張りながら言う。
「亜呂ちゃんとも家族みたいなものかな」
亜呂の顔が、ぱっと明るくなる。
「はい!」
「勝手に家族を増やすんじゃねえ」
「神獣の飼い主とは、また愉快じゃの」
ご隠居が酒を飲みながら笑っている。
「いいじゃない。賑やかな方が」と羅馬。
「誰の家だと思ってやがる」
「亜呂ちゃんの家?」
「俺の屋敷だ。」
座敷に笑い声が広がった。
ご隠居はその様子を眺めながら、静かに杯を傾けていた。
涅央の内側。
深い眠りの底で、酒吞童子がゆっくりと目を開く。
白虎の霊力。
小さな身体からは想像もつかぬほど、強大な力。
鬼は口元を歪めた。
『これはまた、奇っ怪な姿…』
『だが、さすがは桁違いの霊力じゃ』
『これは儂も、手こずりそうじゃ』
そして、その意識はさらに深い場所へ向いた。
皇都の地下。
地脈のそのまた底。
人の手も、神の目も届かぬ闇の中で。
何かが、白虎の復活に呼応するように、微かに脈打った。
古い鎖が軋む。
岩の隙間から、禍々しい気配が僅かに漏れ出す。
酒吞童子の笑みが、少しだけ消えた。
『……ほう』
『あれまで揺り起こしたか』
地上では、誰もそのことを知らない。
「次は私が抱きます!」
「まだ私の番です!」
「白虎様、こちらの料理もどうぞ!」
「神獣を餌づけするんじゃねえ!」
仁虎の怒声に、また笑いが起きる。
皇都の地下で災厄が目覚めようとしている。
三界の境は、今も少しずつ軋んでいる。
それでも今夜だけは。
帰ってきた者を祝い。
新たな仲間を迎え。
白詰草同盟の面々は、夜が更けるまで笑い続けた。
旅籠ひぐらしの灯は、いつまでも消えなかった。
――白虎編・完




