Episode 9:『傾国の指輪』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の男だった。整った顔立ちに、自信ありげな笑み。だが、その目の奥には、焦りが隠しきれずに滲んでいた。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
俺は、ホストだ。顔にも、話術にも自信があった。
指名料も、同伴の数も、いつだって上位に食い込んでいる。それでも、店のNo.1には、いつも桁違いの太客を抱えたあいつがいて、俺は万年No.2だった。
No.1の座に立つあいつを見るたび、腹の底が焼けるように悔しかった。同じ努力をしているはずなのに、あいつには生まれ持った"何か"があって、俺にはそれが決定的に足りない。
そう思うたび、眠れない夜が増えていった。今月こそは、と意気込んでは負け、また意気込んでは負けを繰り返すうちに、俺は藁にもすがる思いで、この店の噂を頼りにここまで来た。
「No.1に負けない太客が欲しい。俺は絶対に、No.1になりたいんだ」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「指輪を一つ差し上げましょう。それをつければ、どんな客も、あなたに夢中になります」
「――金は」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。No.1になれるなら、他に何を失っても構わないと思った。
「――もらう」
差し出された指輪を、俺は迷わず薬指にはめた。
――翌日、店にいつも通り出勤した。何も変わった気はしなかった。
あれは夢だったのか、と諦めかけたその時、見るからにゴージャスな格好をしたおばちゃんが来店した。
金を持っているのは一目で分かった。ただ、顔は――正直、ブスどころの騒ぎじゃなかった。これだけ金があるのに、なぜ整形しないのかと思うレベルだった。
なぜか、俺に指名が入った。
俺はプロだ。顔には出さず、丁寧に、楽しく接客した。
彼女は上機嫌で、店で一番高いボトルを入れてくれた。
――まじか。あれは夢じゃなかったんだ。
それから、彼女は毎日のように俺を指名してくれた。
話を聞くと、かなりの資産家の家柄らしい。もともと裕福な家に生まれたが、父親がやり手で、いろんな会社を潰しては、自分の会社をさらに大きくしてきたという。
彼女は、驚くほど話し上手だった。若い頃に読んだ本のこと、旅行先で見た景色のこと、俺が聞いたこともない海外のオペラの演目。
金持ちの道楽者かと思いきや、話していると時々、鋭く本質を突くようなことを言う。
正直、客としては悪くなかった。金払いは良いし、絡み酒でもない。ただ、その見た目だけが、どうしても引っかかった。
「このお金の上には、いろんな人の不幸があるのよ」
彼女は、そう寂しそうに呟いた。
俺は寄り添って、同情するふりをした。もちろん、本心じゃない。同情するふりをして、彼女の心を慰めているだけだった。
指名が続けば続くほど、俺とNo.1の差はじりじりと近付いていった。あいつを追い抜くのも、時間の問題だ。
今週末は、俺の誕生日だった。今回で必ずNo.1になる。
俺は必死だった。逃すわけにはいかなかった。
女をアフターに誘い、それから毎日、彼女を抱いた。
枕なんて、この業界じゃ誰でもやっている。正直、抱くのは苦痛だった。でも、金のためだ。
最初はひどく拒まれた。彼女は服を脱ぐことをずっと避け続けていた。
何度目かの夜、ようやく理由を聞かせてくれた。
彼女の家に、父親に潰された会社の元社長が火をつけたことがあるのだと言う。その日、家にいたのは彼女だけで、一命は取り留めたものの、全身に重い火傷を負ったのだそうだ。
あの日から、誰にも肌を見せたことがないのだと、彼女は震える声で言った。
悲しい話だとは思った。
でも、正直な感想として――金を持っていても、こんな見た目じゃ人生つまらないだろうな、とも思った。
継ぎ接ぎだらけの皮膚。まぁ、顔さえ見なければいい。
俺は心の内を隠し、丁寧に彼女を抱いた。彼女は、行為のあと決まって静かに涙を流した。
「ありがとう」と、消え入るような声で言うのが常だった。
俺はその涙の意味を、深く考えようとはしなかった。ただ、あと少しでNo.1だ、ということしか頭になかった。
誕生日当日、店で初めてじゃないかというくらい豪華なシャンパンタワーが組まれた。彼女は、店中の注目を一身に浴びながら、俺のためにボトルを何本も入れてくれた。
同僚たちの視線が、悔しさと羨望に変わっていくのが分かった。あいつの顔が、初めて曇るのを見た。
俺は、夢だったNo.1になった。
「おめでとう。あなたに出会えて、良かった」
彼女は、そう言って微笑んだ。
――
次の日の朝、焦げ臭い匂いで目が覚めた。
火事だった。カーテンにはすでに火が回り、部屋中が煙で満たされていた。
逃げようとドアに手をかけたが、開かなかった。誰かが外から押さえているような、不自然な抵抗があった。
助けを呼ぶ声も、煙に飲まれて掠れていく。逃げ遅れた俺は、そのまま意識を失った。
――
気づけば、病院のベッドの上だった。重度の火傷を負っていた。
医者は、奇跡的に一命を取り留めたと言った。だが、鏡を見せられたとき、俺は声も出なかった。
自慢だったイケメンの顔は、もう見られたものじゃなかった。継ぎ接ぎだらけの、あの女の顔と同じだった。
見舞いは全員断った。こんな顔誰にも見せられない。
俺はベッドの上で、初めて、あの女が長年味わってきた孤独の重さに、少しだけ触れた気がした。
数週間後、病室に、ノックの音がした。
「誰だ、面会拒絶の札が見えないのか!」
俺は叫んだ。入ってきたのは、見知らぬ女性だった。すらりとした立ち姿、迷いのない足取り。その顔を見て、俺は言葉を失った。
――俺の、顔だった。かつて自分が鏡で見ていた、あの自信に満ちた顔。
女は、俺の顔で静かに微笑んだ。
「父親を恨んでね」
それだけ言って、女は病室を去った。
あわい商店の奥、棚に、二つの叶え物が静かに戻ってきた。曇りの取れた指輪と、灰をかぶった小さな符。
一つは、誰かに愛される力を求めた男のもの。もう一つは、遥か昔、自分を焼いた男の血筋への報いを願った、女のもの。
二つの願いは、こんな形で、ようやく重なり合った。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




