Episode 10:『子授けの竹筒』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは、老いた夫婦だった。二人とも、山を何日も歩き通してきたかのように、着物の裾が泥で汚れていた。
案内も広告もない店に、二人がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに二人を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。
懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
老いた妻が、震える声で言った。
「子供が、欲しいのです。もう若くもなく、贅沢は申しません。どんな子でもいい……どうか、子供を授けてください」
夫も、深く頭を下げた。長年、二人きりで山奥に暮らしてきた二人にとって、それだけが唯一の願いだった。
若い頃から、何年も子を授かろうと努めてきた。町の医者にも、祈祷師にも、藁にもすがる思いで頼った。
それでも、子供はできなかった。
歳を重ねるごとに、周りからは「諦めなさい」と言われ続けた。それでも、山の中の小さな家で、いつか誰かの声が響く日を、二人はどこかで諦めきれずにいた。
店主は、二人の目をまっすぐに見て言った。
「授かりの竹筒があります。持ち帰り、家の中に置けば、お二人に子供が授かるでしょう」
二人は目を輝かせた。
「――お代は」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
二人は、迷わなかった。子を持てる喜びの前では、他に何を失おうと構わないと思った。
「――お願いします」
差し出された小さな竹筒を受け取り、二人は山奥の我が家へと帰った。言われた通り、竹筒を居間の柱に立てかけて眠りについた。その夜――泣き声で目が覚めた。
柱の下に、生まれたてほどの女の赤子が横たわっていた。まるで、竹の中から生まれ出たかのように、淡い光が、しばらくその小さな体を包んでいた。
二人は、その子を「かぐや」と名付けた。
それから数年、二人はこの上ない幸せの中で暮らした。
かぐやは笑うたびに、二人の顔をくしゃくしゃにさせた。母は毎朝、小さな器に粥を用意し、匙で少しずつ冷ましてから食べさせた。
父は日暮れになると、肩車をしてかぐやを庭中歩き回った。かぐやが初めて「とと」「かか」と呼んだ日、二人は抱き合って泣いた。
誕生日には、粗末ながらも精一杯の御馳走を並べ、三人で歌を歌った。かぐやが摘んできた野の花を、母は毎晩、水を替えて大切に飾った。
山奥の静かな暮らしに、かぐやという小さな光が灯って以来、二人の日々は色を取り戻していた。
――異変が起きたのは、かぐやが二歳になった頃だった。
どれだけ工夫しても、かぐやは食事を口にしなくなった。すべて頑なに拒む。
好物だった芋粥も、口元に運ぶと顔を背けた。日に日に痩せていくかぐやを前に、母は毎晩眠れずに祈った。
医者を呼ぼうにも、この山奥まで来てくれる者はいなかった。父は、かぐやの顔色を見るたび、胸が締め付けられる思いだった。
そんなある日、二人で昼寝をしていて目を覚ますと、かぐやの姿がなかった。慌てて探すと、台所で、冷蔵庫を漁っているかぐやを見つけた。手にしていたのは、生の肉だった。
かぐやは、それを、この上なく美味しそうに頬張っていた。口の端から赤い汁が滴り落ちるのも構わず、小さな手で肉を掴み、夢中で齧りついている。
母は驚いたが、すぐに顔をほころばせた。
「――やっぱり、私達の子供だわ!」
それから父は、鳥や兎を狩っては、生肉をかぐやに与えるようになった。かぐやは、それを食べるたびに、嬉しそうに笑った。二人は、それでいいと思うことにした。どんな形でも、この子が育ってくれるなら。
しかし、五歳になる頃、かぐやはまた、何も食べなくなった。
鳥や兎の肉を差し出しても、かぐやはそれを一瞥するだけで、興味を示さなくなっていた。日に日に、あの子の目つきが変わっていくのを、母は誰よりも早く感じ取っていた。以前のような無邪気な輝きが消え、何かをじっと計るような、冷たい光が宿るようになった。
二人は悩んだ。もっと大きな獲物の肉が必要なのかもしれない、と父は考えた。
「今日は、鹿を獲ってくる」
父は、朝早くに山へ入った。半日かけて、大きな鹿を仕留め、意気揚々と家へ戻った。
背負った鹿の重みに息を切らしながらも、かぐやの喜ぶ顔を思い浮かべると、足取りは自然と早まった。
これでかぐやも喜ぶだろう、そう思いながら、玄関の戸を開けた瞬間――強い血の匂いが鼻をついた。
居間で、母が横たわっていた。その傍らで、かぐやが、母の腹の中に手を入れ、内臓を、美味しそうに食べていた。
かぐやの口元にも、頬にも、母の血が飛び散っていた。まるで、これまで我慢していた分を取り戻すかのように、無心に貪っていた。
父は、声も出せずに後ずさった。手にした鹿を、思わず取り落とした。
震える足で玄関へ向かおうとした瞬間、かぐやが顔を上げ、こちらを見た。血に濡れた口元で、にこりと笑った。あの、無邪気だった頃と同じ笑顔だった。それが、何よりも恐ろしかった。
子供とは思えない速さで、かぐやが飛びかかってきた。父は避けきれず、後ろの棚に体をぶつけて倒れ込んだ。
「いただきます…♡」
――父親がぶつかった、後ろの棚の上から、古い新聞紙が一枚落ちてきた。
黄ばんだ紙面の見出しには、こう書かれていた。
「連続幼児失踪事件、いまだ犯人見つからず」
後日夫婦の家に警察が来た時には、かぐやの姿は見当たらなかった。夫婦の遺体と、庭の解体場からは小さな子供の骨が複数発見された。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。竹の香りの抜けきった小さな筒——もう二度と何も授けることのない、誰かの願いの残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




