Episode 11:『証映硝子』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の父親だった。目には血走った憎しみが宿り、握りしめた拳は白く強張っていた。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。
懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪、竹の香りの抜けきった筒——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
――俺の娘は、殺された。
犯人はすぐに逮捕された。娘と付き合っていた、あの男だった。
優しかった娘は、あの男と付き合うようになってから人が変わった。家にも帰らなくなり、学校にも行かなくなった。以前は毎晩のように家族で食卓を囲んでいたのに、いつからか娘は俺と目を合わせなくなった。
そして、黙って家を出た。あの男と暮らしているらしい。
常に娘の安否を常に気にしていた。そんなある日突然、娘の訃報が届いた。娘の柩を前に、俺は現実を受け入れられなかった。
それなのに、それなのに、男は証拠不十分で不起訴になった。
「あの男に、しっかりとした罰を与えたい。起訴されるだけの、決定的な証拠が欲しいんです」
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「あった出来事を、ありのままに映し出す硝子があります。あなたが望む真実を、映像として見せましょう」
「――いくらだ」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
迷わなかった。娘の無念を晴らせるなら、他に何を失っても構わないと思った。
「――頼む」
差し出された硝子を受け取り、俺は家に持ち帰った。
何気なく硝子を覗いてみた。曇った表面には、何も映らない。窓の景色も、俺の顔も。ただ、どこまでも深い灰色だけが広がっていた。
「……騙されたのか」
思わずそう呟き、棚へ乱暴に置いた。それから俺は、一度も硝子を覗こうとは思わなかった。
警察からの朗報を待ち続けたが、一向に起訴される気配はなかった。
毎朝、新聞を隅々まで読んだ。担当刑事に何度も電話をかけ、進捗を尋ねた。返ってくるのは、いつも同じ、歯切れの悪い返事だけだった。
硝子は居間の棚に置いたまま、何の変化も見せなかった。俺は、店主に騙されたのではないかと、何度も疑いかけた。
妻も、日に日に憔悴していった。娘を失った悲しみで、笑うことも忘れていくようだった。食事もろくに喉を通らなくなり、食も細くなっていった。
そして、とうとう妻が倒れた。病院に運ばれた妻の容態は、思っていたよりずっと悪かった。
病室には、面会謝絶の札がかけられた。
そんな病院帰りの出来事だった。帰り道、信号待ちをしていると、信号の先にあるコンビニであの男を見かけた。コンビニの袋を片手に、隣には友人らしき男がいて、肩を叩き合いながら何かを話していた。笑い声が、妙にはっきりと耳に届いた。娘はもう、笑えない。妻は病室で、生きる気力すら失っている。なのに、あいつだけは普通の日常を送っている。その光景が、どうしても許せなかった。俺は気づけば拳を握り締めていた。爪が掌に食い込み、血が滲んでも痛みは感じなかった。あの日から、俺の中で何かが壊れ始めていた
――全部あの男のせいだ。
司法が裁かないなら、俺が裁くしかない。俺は、あの男を殺す計画を練り始めた。
使ったこともない包丁を買い、夜な夜な、男の家の近くに車を停め、生活のパターンを調べた。
何時に家を出て、何時に帰るのか。一人になる瞬間はいつなのか。
俺はノートに男の行動を書き込み続けた。娘の為だ、その気持ちだけが、俺を突き動かしていた。
そんな矢先だった。男の家を張っていると、パトカーが横付けされ、警官たちが男を連れて行くのが見えた。
――やっとか。
これで、手を汚さずに済んだ。娘の無念が晴らされ、妻もきっと良くなる。
数日後、我が家に警察がやってきた。ついに、朗報が届いた!長かった願いが、ようやく叶ったのだ!
妻の病室に、この報せを持って行ってやろう、そう考えながら、俺は玄関の戸を開けた。
しかし、警察が差し出したのは――俺への逮捕状だった。
「――は? なんで、俺が」
「ふざけるな!犯人は、あの男だろう!!」
俺は玄関先で叫び続けた。近所の人々が、何事かとこちらを見ているのが分かった。それでも、止まらなかった。
「あなたが、犯人であるという証拠があります」
頭が真っ白になった。
あの店主が、俺を嵌めたのか――そう思う間もなく、俺は連行された。
硝子には娘の首を絞める俺の姿が映し出されていることを知らずに。
パトカーの窓越しに見えた自宅は、もう随分遠いもののように感じられた。
――
――彼氏、その男は警察署の一室にいた。任意同行という形だったが、事実上、彼は保護されていた。
男はずっと前から、彼女から相談を受けていた。
実の父親から性的な暴行を受けているのだと、彼女は震えながら打ち明けていた。
最初は誰にも言えず、笑って誤魔化していた彼女が、ある夜、堰を切ったように泣きながら全てを話してくれた夜のことを、彼は今でも覚えている。
彼は、彼女を守るために、自分の部屋で一緒に暮らすことにした。
実家に連絡することも考えたが、彼女は頑なに「バレたらもっと酷い目に遭う」と怯えるばかりだった。
その後、父親らしき男が俺の家の周辺をうろつくようになった。彼女にはなるべく外に出ないよう、何度も伝えていた。
――あの日は、俺誕生日だった。
「昼間なら、父親も仕事に行っているから大丈夫」
――そう思った彼女は、祝いの買い出しに出かけてしまった。それが、悲劇を招いた。
父親は、仕事を休んでいた。家から出てきた娘を尾行し、人気のない路地裏で声をかけた。
父親の姿を見て、娘は震え上がった。「躾だ」と言って、父親は彼女を連れ去り、最後には、その首を絞めた。
現場に居合わせなかった彼は、当初、自責の念から「自分がやった」と自供した。
しかし、事件当時、彼は職場で働いており、確かなアリバイがあった。
それにより不起訴となったが、その後、家の周辺で父親らしき男の姿を見かけるようになった彼は、自ら警察に相談し、保護を求めた。
捜査の結果、路地裏へ娘を連れて行く父親の姿が、防犯カメラの映像に残っていた。それが、決定的な証拠となった。
――
妻は病室で夫が逮捕されたニュースを見てホッとした。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。曇り一つない、小さな硝子板——もう二度と何も映し出すことのない、誰かの願いの残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




