Episode 12:『静寂の子守鈴』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の女だった。
目の下には濃い隈があり、抱いた赤ん坊をあやす腕は、小刻みに震えていた。
案内も広告もない店に、彼女がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。
ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼女を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。
懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪、竹の香りの抜けきった筒、曇り一つない硝子板
——どれも値札はついていない。空気は乾いていて、どこか紙とインクの匂いがした。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
――夫は単身赴任で、頼れる親族も近くにいない。
夜も昼もなく続く育児を、私は一人で抱えてきた。里帰り出産のつもりが、義両親との折り合いが悪く、結局実家も頼れなかった。
友人たちは、皆それぞれの生活で忙しく、連絡を取る余裕もいつしかなくなっていた。
特に、夜泣きが辛かった。
眠りについたと思った瞬間、また泣き声が始まる。
抱っこしても、授乳しても、おむつを替えても、泣き止まない夜もあった。
それが毎晩、二時間おき、三時間おきに、何度も繰り返される。
眠れない日が積み重なるうちに、頭の中に霧がかかったようになった。
昼間、鍋を火にかけたまま忘れてしまったこともあった。
信号が赤なのか青なのか、一瞬分からなくなったこともあった。
自分が壊れていくのが分かった。
鏡に映る顔は、以前の自分とは別人のようだった。
目の下の隈は濃くなる一方で、笑うことも、いつからかできなくなっていた。
最近、怖いことがある。
泣き声を聞くと、頭の中で何かがぷつりと切れる感覚がある。
伸ばした手が、あやすためではなく、別の目的で震える瞬間がある。
ある夜、泣き止まないわが子を前に、気づけば布団に強く押し付けそうになっている自分がいた。
はっとして手を離し、そのまま玄関に座り込んで朝まで震えていた。
そうなる前に、私はいつも、自分の手を強く握りしめて堪えていた。
それでも、いつか本当に、この子に手を上げてしまうんじゃないかと、怖くてたまらなかった。
誰にも相談できなかった。
「甘えている」「みんな通る道」――そう言われるのが怖くて、誰にも本当のことを言えなかった。
「――この子の、育児を楽にしてほしいんです」
声を絞り出すように、私はそう言った。
店主は、私の目をまっすぐに見て言った。
「振れば、赤子がぐずらなくなる子守鈴があります」
「――お金は…」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
私は、腕の中の子の顔を見た。まだ小さな寝顔は、天使のように無垢だった。
この子を傷つけるくらいなら、私自身の何かを差し出したほうがずっといい。そう思えた。
このままでは、私自身が、この子に何をしてしまうか分からなかった。それだけが、怖かった。
「――お願いします」
差し出された小さな鈴を受け取り、家に帰ってすぐに振ってみた。
その夜から、嘘のように夜泣きが止んだ。ぐずることはあっても、以前のような、耳をつんざくような泣き声は上げなくなった。
私は、久しぶりに朝まで眠れた。
それから育児は、驚くほど楽になった。夜も静かに眠ってくれる。
少し機嫌が悪くても、口をへの字に曲げるだけで、声を上げることはない。
周りの母親たちからは「大人しい子でいいわね」と羨ましがられた。
私は、ようやく人並みの生活を取り戻せた気がしていた。
久しぶりに、朝はきちんと目覚まし時計で起きられるようになった。
予防接種の注射の瞬間でさえ、この子は顔を歪めるだけで、声一つ上げなかった。
看護師さんに「こんなに大人しい子は初めて見ました」と褒められ、私は誇らしい気持ちになった。
支援センターに久しぶりに顔を出すと、他の母親たちが我が子の夜泣きの愚痴をこぼしているのが聞こえてきた。
以前の自分なら、深く頷いていたはずのその会話に、私はどこか他人事のように相槌を打っていた。
自分だけが、育児という長い戦いから一足先に抜け出したような、そんな優越感すら覚えていた。
夫がたまに帰省したときも、「本当に育てやすい子だな」と感心していた。
私はちゃんとできている。
この平穏がずっと続くのだと、疑いもしなかった。
異変に気づいたのは、二歳頃。
この子が一言も言葉を発さないことだった。「まんま」も、「ママ」も、喃語すら聞いたことがなかった。
不安になって病院に連れて行った。
何度かの検査のあと、医師は困惑した様子で、モニターの画像を指しながら言った。
「――この子には、声帯が、ありません」
頭が真っ白になった。
生まれつきないのか、それとも――と聞こうとした声は、うまく形にならなかった。
あの子は、これから先も、決して泣くことも、笑うことも、私を呼ぶことも――声にすることは、できない。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。
音の鳴らなくなった小さな鈴
——もう二度と誰かを泣き止ませることのない、誰かの静寂の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。
ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




