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Episode 13:『黄昏の招待状』

次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。


その日、扉を叩いたのは一人の男だった。スーツのポケットには、何年も前の古い予約確認メールを印刷した紙が、折り目もつくほど大切にしまわれていた。


案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。


棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。


懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪、竹の香りの抜けきった筒、曇り一つない硝子板、音の鳴らない鈴——どれも値札はついていない。


「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」


――妻とは、大学時代に出会った。


同じサークルの新歓コンパで、隅の方で一人、静かに料理を食べていた妻に、目を奪われた。気付いたら俺は、思わず声をかけていた。


人見知りで口下手な妻だったが、話してみると誰よりも芯の強い人だった。連絡先を交換して、その日から積極的にアプローチをした。そして、俺が告白して付き合い始めた。


互いにアルバイトで忙しく、デートといえば大学近くの安い定食屋か、河川敷での散歩くらいだった。


それでも、妻はいつも笑っていて、俺の他愛のない話に、真剣に耳を傾けてくれた。


社会人になって数年、少しずつ貯金ができるようになった頃、思い切って一つ上のレストランを予約した。


緊張のあまり、料理の味もろくに覚えていないくらいだったが、デザートの皿に指輪を忍ばせて渡したとき、妻が涙をこぼしながら頷いてくれたことだけは、鮮明に覚えている。――結婚して一年後妻は、拡張型心筋症を患った。


心臓の機能が年々落ちていき、今は補助人工心臓を胸に埋め込んで、かろうじて命をつないでいる状態だった。


移植登録をしてからもう三年、順番を待ち続けているが、いつ適合するドナーが現れるかは、誰にも分からない。容体が急変する可能性がある以上、妻は常に病院の近くを離れられない。携帯電話を肌身離さず持ち、いつ移植のコーディネーターから連絡が来てもいいように、二十四時間態勢で待機する日々だった。


外出許可が下りるのも、せいぜい病院の中庭を散歩する程度で、遠出などとても叶わなかった。最初の数年は、二人ともまだ希望を持っていた。移植さえ受けられれば、また普通の生活が戻ってくると信じていた。


だが、待機者リストの順番は思うように進まず、妻の体は少しずつ弱っていった。最近は、会話の途中で息切れすることも増え、笑うことさえ体力を使うようになっていた。そんな中でも、俺はどうしても、妻を連れて行きたい場所があった。二人の思い出のレストランだ。


あの店は、その後テレビで取り上げられたことで席が空くのは数年先だという。妻の容体を考えれば、それまで待てるはずもなかった。何度も予約サイトを確認しては、諦めることを繰り返してきた。「もう一度だけ、あの店で、妻と食事がしたいんです」


店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。


「黄昏の招待状があります。どんな席でも、必ず一つ、開けることができます」


「――妻の治療費であまりお金に余裕がないのですが、いくらですか」


「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」


「何を失うか、分からない……」


「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」


店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。


妻に残された時間はもう長くない。それなら、他に何を失っても構わないと思った。


「――頼む」


差し出された小さな招待状を受け取った。


――翌朝、あのレストランから、丁寧な電話がかかってきた。「特別なご招待の枠が空きました」と。


妻は、久しぶりに病院の外に出た。医師には強く止められたが、俺たちはどうしても諦められなかった。


担当医は最終的に、「万が一の場合はすぐに連絡が取れるように」と、渋々送り出してくれた。


妻はドレスに着替え、久しぶりに口紅を引いた。鏡の前に立つ妻の後ろ姿は、久しぶりに、あの学生時代の面影を取り戻しているように見えた。


「こんなに着飾るの、何年ぶりかしら」と、妻は少し照れくさそうに笑った。


あの日と同じ席で、あの日と同じ料理を、二人で食べた。


運ばれてくる皿の一つひとつに、妻は目を輝かせた。


「このソース、変わらない味ね」と、涙ぐみながら言う妻を見て、俺も胸が熱くなった。妻は、久しぶりに心から笑っていた。


「こんな幸せな夜、いつぶりかしら」と、目を潤ませながら言った。俺たちは、手を握り合いながら、これまでの数年間を語り合った。


出会った頃の話、プロポーズの日。何度も聞いた話のはずなのに、その夜だけは、まるで初めて聞くように新鮮だった。


携帯電話は、念のためテーブルの隅に置いていた。だが、店内の音楽と談笑の声にかき消され、着信音には誰も気づかなかった。


食事を終え、上機嫌で病院に戻った俺たちを待っていたのは、看護師の困惑した顔だった。


「――何度もお電話したんです。適合するドナーが見つかったと、コーディネーターから連絡があって」


規定の時間内に連絡が取れなかったため、心臓は、次の待機者に回されてしまったという。


妻の顔から、みるみる血の気が引いていった。


俺も、言葉を失った。


「――私のせいね」と、妻は静かに呟いた。何度も「あなたのせいじゃない」と言い聞かせたが、妻はその夜から、あまり多くを語らなくなった。


それから数週間後、妻は静かに息を引き取った。


最期の日々、妻は繰り返し、あの夜のことを話していた。


「後悔していない」と、何度も俺に言い聞かせるように。得たものと代わりに失った席を知った俺は、「後悔しかなかった」


あわい商店には、値札がない。


差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。


棚には、また新しい品が一つ増えている。文字の消えた小さな招待状——もう二度と誰かを招くことのない、誰かの最後の夜の残骸。


それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。


求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。


「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」

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