Episode 14:『真贋の文箱』
次元の狭間、そこには求めるものだけがたどり着ける『あわい商店』がある。
その日、扉を叩いたのは一人の青年だった。手には、皺だらけになるまで何度も読み返された、一枚の便箋が握られていた。
案内も広告もない店に、彼がどうやってたどり着いたのか、それは誰にも分からない。ただ、店主は驚きもせず、いつものように静かに彼を招き入れた。
棚には、誰のためのものとも知れない品々が並んでいる。
懐中時計、鍵、種、蝋燭、小さな鈴、灰の匂いの残る香炉、砂の落ちきった砂時計、芯の燃え尽きた灯り、朱肉の乾いた印章、使い古された帰路紐、インクの涸れた万年筆、曇った眼鏡、曇りの取れた指輪、竹の香りの抜けきった筒、曇り一つない硝子板、音の鳴らない鈴、文字の消えた招待状——どれも値札はついていない。
「ここは、"叶え物"を取り扱う商店でございます。あなたの願いはなんでしょうか?」
――父は、自ら命を絶った。
父とは、決して仲が良いとは言えなかった。厳格な人で、俺が就職に失敗してからは、まともに口をきくことも少なくなっていた。
それでも、一日一度は必ず、父から「飯食うか?」と声をかけられていた。あれが、父なりの気遣いだったのだと、今になって思う。だが、俺はそんな父がうざいと思い、会話をすることなく無視し続けていた。
遺書は、残されていた。
だが、そこに書かれていたのは、「人生に疲れたから終わらせます」という文章で、会社でも家庭でも特に問題のなかった父からは全く想像できなかった。
警察は事件性がないから自殺として処理をした。母は、訳がわからない状況に寝込んでしまった。
葬儀の間中、俺はその文面を、何度も何度も読み返していた。答えの出ない問いだけが、頭の中をぐるぐると回り続けていた。
「父の、死の真相が知りたいんです」
俺は、絞り出すようにそう言った。
ふと、子供の頃、不器用な父が慣れない手つきで自転車の練習に付き合ってくれた日のことを思い出した。あの頃の父は、もっと近い距離にいたはずだった。いつからこんなにも、互いの本心が見えなくなってしまったのだろう。
店主は、俺の目をまっすぐに見て言った。
「開けば、知りたかった真実を、余すことなく見せてくれる文箱があります」
「――いくらですか」
「当店、お金はいただいておりません。その代わり、大切なものを一つ失います。何を失うかは、失ってからでないと分かりません」
「何を失うか、分からない……」
「分かってしまえば、誰も選ばなくなるでしょう?」
店主の声には、脅しも同情もなかった。ただ事実だけがそこにあった。
このまま何も知らずに生きていくくらいなら、他に何を失っても構わないと思った。
「――頼む」
差し出された文箱を受け取り、蓋を開けた。
その瞬間、頭の中に、過去の出来事が光景が流れ込んできた。
――俺は、数ヶ月前、割の良いバイトの誘いに乗っていた。
就職に失敗し、貯金も底をつきかけていた頃だった。◯ンスタのアカウントに届いた「日給五万円、即日払い」という文句に、深く考えもせず応募していた。
詳しい内容も知らされないまま、指示された通りに動くだけの仕事。荷物を指定の場所に運ぶだけ、と説明されていたが、次第に、指示の内容がきな臭くなっていった。
それが、いわゆる"闇バイト"だと気づいたのは、もう後戻りできないところまで来てからだった。
恐ろしくなってバイトを逃げ出した。
――ここまでは知っている話だ。
この日、俺が来なかったことで、仕事が滞り、指示役達の怒りを買っていた。
別の仲間が俺の姿を街で見かけて、襲われそうになってきたところに、――物陰から現れたのが、父だった。
何日も俺の様子がおかしいことに気づき、こっそり後をつけていたのだという。
父は、俺に黙って「こいつに手を出すな。俺が全部引き受ける」と、震える声で言い切った。
それから父は、俺を人質のように使われ、指示者たちの言いなりになっていた。
定期的に金を要求されていた。俺の代わりに受け子の役割等をやらされていた。俺は何一つ知らなかった。
父は最後まで、そのすべてを一人で抱え、俺には普段通りの顔しか見せなかった。
しかし父は、黙って言いなりになり続けていたわけではなかった。父はひそかに、指示者たちとのやり取りを録音し、金の受け渡しの様子を写真に収め、司法の場に持ち込むための証拠を、少しずつ集めていた。
危険を承知の上で、いつか必ず決着をつけるつもりだったのだ。
証拠が揃ったと判断したその夜、父は警察署に向かった。だが、その道中、ずっと尾行されていたことに、父は最後まで気づかなかった。
証拠の入った鞄を奪われ、遺書を書かされ、父はビルの上から突き落とされた。
――全部、俺のせいだった。もっと父と会話をしていれば、父の異変にもっと早く気付けたのでは。
そもそも楽して稼ごうとせずに、再度就活を頑張っていれば、あの誘いに乗らなければ。
何度も何度も、あり得たはずの分岐点を思い返しては、押し潰されそうになった。
――それから、何かがおかしくなった。
ニュースで見る言葉も、友人が語る何気ない会話も、本当なのか、嘘なのか、まるで判断がつかなくなっていった。
その後、心を入れ替えたものの、仕事で語られる「あなたなら大丈夫」という言葉も、恋人ができたときの「好きだよ」という一言も、すべてが等しく、真実か嘘か分からない靄の中にあった。
何かを信じようとするたび、頭の奥で警報のようなものが鳴り、判断が引き裂かれる。次第に、誰の言葉にも心から頷けなくなっていった。
一番苦しいのは、自分自身についてだった。俺は、父を殺した罪人なのか。それとも、ただの被害者なのか。何度考えても、その答えだけは、永遠に分からないままだった。
あわい商店には、値札がない。
差し出したものの本当の重さは、いつだって、後になってから分かる。
棚には、また新しい品が一つ増えている。蓋の開かなくなった小さな文箱——もう二度と何も明かすことのない、誰かの真実の残骸。
それがどんな物語を運んできたのか、店主は語らない。ただ静かに、次の客を待つだけだ。
求めたものと、失ったもの。その天秤が釣り合っているかどうかは、誰にも――店主にさえも、分からない。
「本日の営業は、これにて終了。──また、お会いしましょう。あなたが、本当に求めるものを見つけた時に」




